ワールドグランプリ
(WGP から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/31 03:09 UTC 版)
ワールドグランプリ(World Grand Prix)。WGPとも略される。
- 1 ワールドグランプリとは
- 2 ワールドグランプリの概要
WGP
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 00:18 UTC 版)
第二次大戦後の1949年、FIMはロードレース世界選手権(WGP)を開始して、マン島TTレースはイギリスラウンドとして世界選手権シリーズの一戦に組み込まれた。その後もWGPの中でも最も重要な一戦として位置づけられていた。 1954年から1959年まではクリプス・コース(Clypse Course)が使われた。マウンテン・コースの南東に位置する1周17.38kmの公道を使用したロードコースで、マウンテン・コースの一部も使用した。コース名は、人造湖のクリプス湖(Clypse Resevoir)を周回することに因んで名付けられた。1960年からは再びスネーフェルマウンテンコースが使用された。 年々のマシンの性能向上は著しく、1957年にはボブ・マッキンタイヤが初めて100mphを超える平均速度(オーバー・ザ・トン)を記録した。 1959年は日本のホンダが初めて125ccクラスに参戦して完走して谷口尚己が6位入賞、2年後の1961年にはマイク・ヘイルウッドの手によりマン島初優勝を記録した。1963年の50ccクラスではスズキの伊藤光夫が日本人として初優勝した。 マン島TTレースはグランプリの一戦となってからも世界最大のロードレースイベントであり続けたが、一方では60kmに及ぶマウンテン・コースやインターバルスタートといった他のグランプリとは異質な要素が、近代的なサーキットに慣れたGPライダーたちから敬遠されるようになった。また、舗装が荒れていてもコースが長距離に及ぶために改修費用は莫大なものとなる一方で、観客から入場料収入を得ることができない公道コースでは費用の捻出ができなかった。そして、オートバイの速度向上にコースの整備が追いつかず、安全性を重視するライダーはマン島TTレースへの出場を拒否するようになった。ヤマハは1972年はマン島TTレースのみ参加せず、同年ジャコモ・アゴスチーニは「コースが改修されない限り、1973年は出場しないつもりだ」と語った。1973年は有力なチームとライダーは出場しなかった。 そして1976年、FIMは翌年からマン島TTレースをロードレース世界選手権のカレンダーから外し、代わりにイギリスGPとしてシルバーストンでのレースをカレンダーに加えることを発表した。
※この「WGP」の解説は、「マン島TTレース」の解説の一部です。
「WGP」を含む「マン島TTレース」の記事については、「マン島TTレース」の概要を参照ください。
「WGP」の例文・使い方・用例・文例
- WGPのページへのリンク