防衛戦術
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栗林の防御戦術は、日本軍全体の島嶼防衛戦術転換前に考案していた「後退配備・沿岸撃滅主義」が基本路線であったが、海軍との計算づくの妥協もあって一部水際にも陣地を構築しており、いわば「水際撃滅」とのハイブリッド戦術とも言える。具体的には「水際に自動火器と歩兵を置き、主力は北方と摺鉢山に配置する。海岸に上陸して隠れる場所のない敵上陸部隊に対して、火砲、ロケット砲を集中させて殲滅し、それでも敵が前進してくれば、日本軍はゆっくり後退しながら主陣地よりの砲撃によって大打撃を与え続ける」というものであった。アメリカ海軍の公式戦史を記述した歴史家サミュエル・モリソンはその著書で「硫黄島の防御配備は、旧式な水際撃滅戦法と、ペリリュー上陸やレイテ島上陸やリンガエン湾上陸で試みられた新しい縦深防御戦術との両方の利点を共有したものとなった」と栗林の戦術を評した。 栗林が部下将兵に徹底した作戦方針は以下の通り。 アメリカ軍に位置が露見することを防ぐために、日本軍の火砲は上陸準備砲爆撃の間は発砲を行わない。アメリカの艦艇に対する砲撃は行わない。 上陸された際、水際では抵抗を行わない。 上陸部隊が一旦約500m内陸に進んだならば、元山飛行場付近に配置した火器による集中攻撃を加え、さらに、海岸の北へは元山から、南へは摺鉢山から砲撃を加える。 上陸部隊に可能な限りの損害を与えた後に、火砲は千鳥飛行場近くの高台から北方へ移動する。 火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。食糧と弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。 1945年1月に発令された最終作戦は、陣地死守と強力な相互支援を要求したもので、従来の攻撃偏重の日本軍の戦術を転換するものであった。兵力の大幅な損耗に繋がる、防護された敵陣地への肉弾突撃・万歳突撃は厳禁された。 また、栗林は自ら起草した『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底するとともに士気の維持にも努めている。 一 我等ハ全力ヲ奮テ本島ヲ守リ抜カン 一 我等ハ爆薬ヲ抱イテ敵戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン 一 我等ハ挺進敵中ニ斬込ミ敵ヲ皆殺シニセン 一 我等ハ一發必中ノ射撃ニ依ツテ敵ヲ打仆サン 一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ 一 我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン 特に最後の「一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」と「一 我等ハ最後ノ一人トナルモゲリラニ依ツテ敵ヲ悩マサン」は、長期持久戦を隷下将兵に徹底させる旨の一文であり、この誓いは実際の戦闘で生かされることとなる。 さらに陣地防御と持久戦を重要視した実践的指導として、同じく栗林が起草・配布した『膽兵ノ戦闘心得』では以下のように詳述している(膽兵の「膽」とは第109師団の兵団文字符)。 戦闘準備一 十倍ノ敵打チノメス堅陣トセヨ 一刻惜ンデ空襲中モ戦闘中モ 二 八方ヨリ襲フモ撃テル砦トセヨ 火網ニ隙間ヲ作ラズニ 戦友倒レテモ 三 陣地ニハ糧ト水トヲ蓄ヘヨ 烈シキ砲爆、補給ハ絶エル ソレモ覚悟デ準備ヲ急ゲ 防御戦闘一 猛射デ米鬼ヲ滅スゾ 腕ヲ磨ケヨ一発必中近ヅケテ 二 演習ノ様ニ無暗ニ突込ムナ 打チノメシタ隙ニ乗ゼヨ 他ノ敵弾ニ気ヲツケテ 三 一人死ストモ陣地ニ穴がアク 見守ル工事ト地物ヲ生セ 擬装遮蔽ニヌカリナク 四 爆薬デ敵ノ戦車ヲ打チ壊セ 敵数人ヲ戦車ト共に コレゾ殊勲ノ最ナルゾ 五 轟々ト戦車ガ来テモ驚クナ 速射ヤ戦車デ打チマクレ 六 陣内ニ敵ガ入ツテモ驚クナ 陣地死守シテ打チ殺セ 七 広クマバラニ疎開シテ 指導掌握ハ難カシイ 進ンデ幹部ニ握ラレヨ 八 長倒レテモ一人デ陣地ヲ守リ抜ケ 任務第一 勲ヲ立テヨ 九 喰ワズ飲マズデ敵撃滅ゾ 頑張レ武夫 休マズ眠レヌトモ 十 一人ノ強サガ勝ノ囚 苦戦ニ砕ケテ死ヲ急グナヨ膽ノ兵 十一 一人デモ多ク倒セバ遂ニ勝ツ 名誉ノ戦死ハ十人倒シテ死ネルノダ 十二 負傷シテモ頑張リ戦ヘ虜トナルナ 最後ハ敵ト刺シ違ヘ 防御準備の最後の数か月間、栗林中将は、兵員の建設作業と訓練との時間配分に腐心した。訓練により多くの時間を割くため、北飛行場での作業を停止した。12月前半の作戦命令により、1945年2月11日が防御準備の完成目標日とされた。12月8日、アメリカ軍航空部隊は硫黄島に800tを超える爆弾を投下したが、日本軍陣地には損害をほとんど与えられなかった。以降、アメリカ軍のB-24爆撃機がほぼ毎晩硫黄島上空に現れ、航空母艦と巡洋艦も小笠原諸島へ頻繁に出撃した。頻繁な空襲で作業は妨害され、守備隊も眠れぬ夜が続いたが、実質的に作業進行が遅れることはなかった。1月2日、十数機のB-24爆撃機が千鳥飛行場を空襲し損害を与えたが、栗林中将は応急修理に600名を超える人員と、11台の自動貨車および2台のブルドーザーを投入し、飛行場をわずか12時間後に再び使用可能とした。飛行場確保に固執する海軍の要請により飛ばす飛行機も無いのに行われた飛行場修復を、のちに栗林中将は戦訓電報で批判している。 1945年1月5日、市丸少将は指令所に海軍の上級将校を集め、レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅したこと、そして硫黄島が間もなくアメリカ軍の侵攻を受けるだろうという予測を伝えた。2月13日、海軍の偵察機がサイパンから北西へ移動する170隻のアメリカ軍の大船団・艦隊を発見する。小笠原諸島の日本軍全部隊に警報が出され、硫黄島も迎撃準備を整えた。 なお、硫黄島守備隊は映像(ニュース映画)である日本ニュースで2回報道されている。「第246号」(「戦雲迫る硫黄島」2分36秒。他3本。1945年2月20日公開)では、2月16日頃にアメリカ軍が行った硫黄島空襲に対し迎撃や対空戦闘を行う海軍部隊の様子が。「第247号」(「硫黄島」3分14秒。他2本。3月8日公開)では、硫黄島神社に揃って参拝する陸海両軍の軍人・木枝から滴る水を瓶で集めての飲料水化・地熱と温泉を利用する飯盒炊爨など、硫黄島における将兵の日常生活、また一〇〇式火焔発射機による火焔攻撃、戦車第26連隊の九七式中戦車改や九五式軽戦車を仮想敵とした肉薄攻撃など、戦闘訓練の模様が撮影されていると同時に、「前線指揮所に、敵必殺の策を練る我が最高指揮官、栗林陸軍中将」とのナレーションのもとわずか数秒足らずではあるものの、両ラペルに中将襟章(昭18制)を付した開襟シャツ姿の栗林中将の鮮明な映像が収められている。
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