認識論
認識論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:01 UTC 版)
ヘレニズム哲学に先駆けてプラトンが『テアイテトス』で知識について論じている(「感覚」、「真なる判断」、「ロゴスを伴った真なる判断」の三種類の知識が俎上に挙げられるがいずれも反駁されることになる)が、これが起爆剤となってそれまでギリシア哲学であまり論じられなかった認識論が発展した。 エピクロスはプラトンが棄却したはずの感覚を復活させて知識と同一視した。感覚ないし表象(パンタシアー)が誤り得る、例えば四角い塔が遠くから見ると円く見えるといった反論に対して、ある感覚が起きていること、例えば塔が円く見えていることは疑いえないと主張した。このように感覚自体は誤りえないものであり、判断を付加した時に初めて誤りが生じると彼らは考えた。 ストア派は『テアイテトス』(191c-e)における蝋板の比喩を活用して認識論を組み立てていった。表象のうち確実に真であるものが「同意(シュンカタテシス)」されて「把握的表象(カタレープティケー・パンタシアー)」となり、把握的表象がさらに「把握(カタレープシス)」され、完全に統合されることで「知識」になるとゼノンは考えたとされる。そして、表象が確実に真であると人間が判別できる根拠として、あらゆる個々の物には「固有性」が備わっているという考えを持ち出した。また、ストア派は、行為や「感情(パトス)」の起源である「意欲(ホルメー)」も表象に対する同意と考えており、認識論が倫理学と一体となっていた。 ピュロン的懐疑主義派では、まず初期のピュロンやティモンはヘラクレイトスの流転説によく似た考えを持っていて、客観的世界の無差別性に基づいて人間の感覚や判断は不確かだと主張したとされる。さらにディオゲネス・ラエルティオスの伝えるところによれば、ピュロンはプロタゴラス的相対主義の影響下にあったという。後にピュロン主義を復興したアイネシデモスも自らの哲学を「ヘラクレイトス哲学に通じる道」だと述べた。 こういったヘラクレイトスの流転説やプロタゴラスの相対主義に反対したはずのアカデメイア学派もピュロンたちと同じく懐疑主義へ行き着いた。ソクラテスの「無知の知」の精神や『テアイテトス』において知識の定義の試みが余すところなく潰えている事実が彼らを懐疑主義に向かわせたと言われる。感覚的経験から知識を獲得しようとするエピクロス派やストア派に対する批判を通じて、プラトン学派は次第に、「真の知識とは感覚されえない物を対象とする」、「知識は浄化された魂によって得られる」といった考えに向かうことになった。ヒッポのアウグスティヌス『アカデメイア派論駁』では、こうした新たな認識論が以前のアカデメイア派の懐疑主義的認識論と対置して紹介されている。
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