西進・北進
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遵義に中華ソビエト地区を設定した紅軍・中国共産党は、まず貴州から四川省に向かう。紅一方面軍は張国燾の指導する紅四方面軍(総指揮官徐向前)との合流を企図して貴州省から四川省北東部に入ろうとした。紅四方面軍も同様に長征中であったが、彼らの敵は国民党軍ではなく四川軍閥であった。1935年1月末、紅一方面軍は赤水河(長江の南の支流)を渡ったものの、四川軍閥に退けられ退却し、1935年3月には再度赤水河を渡ったがまたも撃退され退却し、結局赤水河を4度渡河する羽目になった(四渡赤水)。党史では、「四渡赤水」は、無目的に転戦していた紅軍が明確な進行方向と戦略目標へと移る転換点になったとしている。 ここでさらに西進し雲南省に入った紅一方面軍だったが、引き続き行く手には、国民党の受け入れも共産党の受け入れも拒否する少数民族と、横断山脈の急峻な山々が待ち受け、国民党軍も必死に追いすがっていた。紅一方面軍は四川盆地を迂回してその西方の山岳地帯に回り、1935年5月末には長江上流の大渡河の瀘定橋を渡った。瀘定橋を22名の決死隊が奪取した戦闘は「飛奪瀘定橋」と呼ばれ、党により長征の中の勝利の一つとして喧伝されるにいたった。西康省(チベットのカム地方、現在の四川省西部)に入り大雪山を踏破した紅一方面軍は、1935年6月、懋功県(現在の小金県)で念願の紅軍別働隊との合流を果たすが、これは当初目指していた紅二方面軍ではなく紅四方面軍との邂逅であった。この過程で国民党軍は紅軍の捕捉が不可能となり、追尾を放棄した。 紅一方面軍はカム地方各地で自治を行っていたチベット人貴族の資産を強制没収し農民を解放するなどして自治国家を築かせようとしたが、国民党政府からの要請も受けたチベットのガンデンポタン政府が紅軍に攻撃を行い、紅一方面軍はこれを逃れて北の甘粛省方面にたどり着いた。カムでの農民の見聞とガンデンポタン軍による攻撃は、その後の共産党のチベット観に暗い影響を与える。また途中で紅四方面軍の一部は党中央の北上路線を拒否し南下に転じたが、その過程で大きな損害を被った。 甘粛省では回族の軍閥・馬家軍による攻撃を受けたが、馬家軍内の親ソ派に助けられ陝西省方面へ逃れた。かくして、江西省・湖南省・貴州省・雲南省・四川省・甘粛省・陝西省と転戦、大自然・軍閥・国民党軍を相手に戦った紅一方面軍は1935年10月に忽然と陝西ソビエト区に姿を現し、1935年10月19日に呉起県(現在は延安市に属する)にたどり着き、ここで紅一方面軍の長征の完了を宣言した。一部の部隊は甘粛省から西進し、新疆まで達してソビエト連邦との連絡に成功している。 貴州省にいた紅二方面軍も1935年11月19日、紅一方面軍の後を追うように長征を開始して雲南省に入り、金沙江と玉龍雪山を越え、そこから北上して横断山脈を越えた。1936年7月始め、紅二方面軍は途中の甘孜県で当地に留まっていた紅四方面軍と合流した。1936年10月22日、静寧県将台堡で紅二方面軍と紅四方面軍は紅一方面軍に合流し(三軍会師)、これにより長征は完了した。 この過程で8万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少するなど、大きな打撃を受けたが、これ以後、毛沢東の指導権が確立され、国民政府に対する攻勢に転じる転換点として、共産党は「長征一万里」として、栄光ある事業と位置づけている。
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