老中就任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 18:20 UTC 版)
文政5年(1822年)5月11日、肥前国唐津藩主・小笠原長昌の長男として唐津城二の丸で誕生。幼名は行若(後に敬七郎)。 文政6年(1823年)に長昌が死去すると、後継の藩主には信濃国松本藩主・戸田光庸の長男・小笠原長国まで4人続いて養子が迎えられ、幼少の長行は庶子として扱われた。 長行は幼少から明敏であったので、天保9年(1838年)に江戸に出て、そこで朝川善庵に師事した。安政4年(1857年)に長国の養嗣子になり、藩政にも携わって名声を高めた。図書頭と称する。文久2年(1862年)には世嗣の身分のまま、奏者番から若年寄、9月11日老中格、そして間もなく老中となった。文久2年8月21日に発生した生麦事件に対しては、事態を早急に終結させるために翌文久3年5月9日(1863年6月24日)、幕府に無断で賠償金10万ポンドをイギリスに支払った。
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