終戦前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 14:57 UTC 版)
終戦後、悪化した治安に対応し在満朝鮮人の生命と財産を保護するためとしていち早く居留民団を組織し、そのうちの一つである新京保安司令部の司令官となった。これには崔昌彦(光明中学校卒業)や金錫範ら丁の満州人脈が参加し、満州国軍中佐の元容徳が合流した後、「東北地区光復軍司令部」の看板を掲げるなどした。1945年8月18日、ソ連軍が新京に進出すると、李翰林(陸士57期、満州国軍中尉)、崔周鍾(陸士58期、満州国軍少尉)、金東河(朝鮮語版)(新京軍官学校1期、満州国軍上尉)、尹泰日(新京軍官学校1期、満州国軍中尉)らと合同し、新京保安司令部は朝鮮人兵士400人を集めるに至った。 1945年9月、崔周鍾らを伴いソウルに渡り、建国準備委員会の朴承煥らと接触したが、すぐに帰国した。 1945年10月中旬、中華民国総統蔣介石の長男で国民革命軍中将の蔣経国に接触し、武器や予算の支援を受けるようになった。同月、金錫範に新京保安司令部司令官の座を引き渡すと丁一権はKGBに連行された。KGBは武器を返却させ新京保安司令部を解散させると、丁一権にモスクワで6ヶ月の再教育を受けたうえで北朝鮮での軍の設立に取り組むよう要求した。しかし留学直前の試験で不合格となり、さらにソ連軍を誹謗した事実が発覚したことから悪質分子としてシベリアに送られることになった。 同年12月中旬、シベリア行きの列車から脱走。平壌に渡り、満州国軍官学校時代の後輩である白善燁を訪ね数日滞在した後、白善燁の弟の白仁燁と共に越南した。
※この「終戦前後」の解説は、「丁一権」の解説の一部です。
「終戦前後」を含む「丁一権」の記事については、「丁一権」の概要を参照ください。
終戦前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 17:22 UTC 版)
日本の敗戦後、連合国側から東インドでの武装解除、現状維持、治安維持を厳命された日本軍は、1945年8月19日付でペタを解散した。 その後、ジャカルタのペタの元将兵らは、それぞれ帰郷するなどしたようだが、その他の各地の元ペタ将兵らは組織と装備を維持しつつ、インドネシア独立宣言後の正規軍編成の呼びかけに応じ、蘭印軍出身者と共に初期のインドネシア国軍の基幹戦力を構成した。彼らは近代的軍事訓練を受けた戦闘員として、オランダとの独立戦争で重要な役割を演じた。後にインドネシアの第2代大統領となる若き日のスハルトもそのようにして正規軍に加わり、優秀な野戦指揮官として、軍内で頭角を現していった。
※この「終戦前後」の解説は、「郷土防衛義勇軍」の解説の一部です。
「終戦前後」を含む「郷土防衛義勇軍」の記事については、「郷土防衛義勇軍」の概要を参照ください。
- 終戦前後のページへのリンク