神尾光臣とは? わかりやすく解説

神尾光臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/29 14:50 UTC 版)

神尾かみお 光臣みつおみ
神尾光臣
生誕 1855年2月27日安政2年1月11日
日本信濃国諏訪郡岡谷村
死没 (1927-02-06) 1927年2月6日(71歳没)
日本東京府東京市
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1874年 - 1917年
最終階級 陸軍大将
指揮 東京衛戍総督
青島守備軍司令官
第18師団
第9師団
歩兵第22旅団長
近衛歩兵第3連隊
戦闘 西南戦争
日露戦争
第一次世界大戦(青島の戦い)
墓所 雑司ヶ谷霊園
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張村の司令部にて、外國觀戰武官、新聞記者と撮影。司令官神尾光臣中将、山梨半造少将、アイアンズ大佐、磯村年砲兵大佐、原口初太郎砲兵中佐、頭本元貞など
神尾光臣の墓

神尾 光臣(かみお みつおみ、1855年2月27日安政2年1月11日) - 1927年昭和2年)2月6日)は、日本陸軍軍人華族東京衛戍総督青島守備軍司令官第9師団第18師団長等を歴任し、階級は陸軍大将従二位勲一等功一級男爵に至る。第一次世界大戦での青島攻略の指揮を執ったことで有名。

経歴

信濃国諏訪郡岡谷村(現・岡谷市)に諏訪藩士・神尾平三郎の次男として生まれ、1874年(明治7年)10月、陸軍教導団に入る。1876年(明治9年)2月、教導団を卒業し陸軍歩兵軍曹に任官。1877年(明治10年)1月から西南戦争に従軍し、7月曹長、10月少尉試補に進級する。1879年(明治12年)2月1日、西南戦争の戦功により陸軍少尉に進み、1882年(明治15年)4月には陸軍中尉を命ぜられる。同年7月から参謀本部出仕の身分で清国に渡る。1885年(明治18年)8月、陸軍大尉に進級し、1886年(明治19年)2月に帰国する。同年4月、歩兵第11連隊中隊長を拝命し、1888年(明治21年)5月、参謀本部出仕に移り、1889年(明治22年)12月から参謀本部第2局員となる。1891年(明治24年)12月、陸軍少佐に昇進し、歩兵第1連隊付となる。

1892年(明治25年)4月28日から後の駐在武官にあたる清国公使館付を拝命する。1894年(明治27年)8月17日に帰国し同年10月から第2軍情報主任参謀として日清戦争に出征する。1895年(明治28年)1月、陸軍中佐に進級し、同年6月2日から再び清国公使館付となる。1897年(明治30年)10月11日、陸軍大佐進級と共に近衛歩兵第3連隊長を命ぜられる。

1899年(明治32年)2月には参謀本部出仕の身分でヨーロッパに出張する。1900年(明治33年)4月、第1師団参謀長に就任し、同年7月の参謀本部付を経て、1901年(明治34年)2月、第10師団参謀長を命ぜられる。1902年(明治35年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第22旅団長を命ぜられる。1904年(明治37年)8月、遼東守備軍参謀長に就任し、1905年(明治38年)6月から大本営附を命ぜられ、同月中に清国駐屯軍司令官を拝命する。1906年(明治39年)11月、関東都督府参謀長に移る。1907年(明治40年)11月、近衛歩兵第1旅団長を経て、1908年(明治41年)12月、陸軍中将に進級、第9師団長に親補される。

1912年(大正元年)12月、第18師団長に移り、第一次世界大戦では1914年(大正3年)に青島攻略を指揮しこれを攻略、同年11月から青島守備軍司令官となる。1915年(大正4年)5月、東京衛戍総督を命ぜられ、1916年(大正5年)6月、陸軍大将に進む。同年7月歴戦の功から男爵の爵位を授けられ華族に列せられる。同8月待命となり、1917年(大正6年)8月6日依願により予備役編入[1]1921年(大正10年)4月の予備役を経て1925年(大正14年)4月に退役する。1927年(昭和2年)2月6日薨去。墓所は東京都豊島区南池袋雑司ヶ谷霊園

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

  • 妻のまつ(1863年生)は江崎政国(元松本藩士、のち会計局役人)の長女
  • 長女の愛(1887年生)は八十島樹次郎の妻。
  • 次女安子(1889年生)は作家有島武郎に嫁ぐ。
  • 長男神尾毅一(1892年生)が1931年(昭和6年)死去したため、神尾家は有島武郎の三男行三が継いだ。
  • 三女龍子(1904年生)は多湖實夫の妻。

脚注

  1. ^ 『官報』第1505号、大正6年8月7日。
  2. ^ 『官報』第3582号「叙任及辞令」1895年6月10日。
  3. ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
  4. ^ 『官報』第5767号「叙任及辞令」1902年9月22日。
  5. ^ 『官報』第7288号「叙任及辞令」1907年10月12日。
  6. ^ 『官報』第7932号「叙任及辞令」1909年12月1日。
  7. ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
  8. ^ 『官報』第1183号「叙任及辞令」1916年7月11日。
  9. ^ 『官報』第33号「叙任及辞令」1927年2月10日。
  10. ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
  11. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
  12. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  13. ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。
  14. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  15. ^ 『官報』第8679号「叙任及辞令」1912年5月27日。
  16. ^ 『官報』第1067号「叙任及辞令」1916年2月24日。
  17. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  18. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  19. ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
  20. ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(明治45年7月1日調) 11コマに記載
  21. ^ 『官報』第7607号「叙任及辞令」1908年11月2日。
  22. ^ 『官報』第7906号「叙任及辞令」1909年10月26日。
  23. ^ 『官報』第7950号「叙任及辞令」1909年12月22日。
  24. ^ 『官報』第950号「叙任及辞令」1915年10月1日。
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
神尾(光臣)家初代
1916年 - 1927年
次代
神尾毅一

神尾光臣

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駐在武官」の記事における「神尾光臣」の解説

明治25年4月28日清国公使館附。後に陸軍大将

※この「神尾光臣」の解説は、「駐在武官」の解説の一部です。
「神尾光臣」を含む「駐在武官」の記事については、「駐在武官」の概要を参照ください。

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