相模波多野氏とは? わかりやすく解説

相模波多野氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 02:17 UTC 版)

波多野氏」の記事における「相模波多野氏」の解説

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、摂関家領である相模国波多野荘(現神奈川秦野市)を本領とした豪族坂東武士としては珍しく朝廷内でも高い位を持った豪族である。 前九年の役活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏源頼義家人として仕えていた。経範の父・佐伯経資が頼義の相模補任に際して、その目代となって相模国下向したのが波多野氏起こり考えられている。経範の妻は藤原秀郷藤原氏で、のちに波多野氏佐伯氏から藤原氏改め藤原秀郷流を称している。秦野盆地一帯勢力張り沼田郷・河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族配した。 経範から5代目の子孫・波多野義通は頼義の子孫である源義朝仕え、その妹は義朝側室となって二男朝長産み保元の乱・平治の乱でも義朝軍として従軍しているが、保元の頃に義朝嫡男廻る問題不和となって京を去り所領波多野荘に下向したという。 義通の子波多野義常京武者として京の朝廷出仕し官位得て相模国有力者となる。義朝遺児源頼朝挙兵すると、義常は頼朝敵対し討手差し向けられ自害した。 義常の遺児である波多野有常叔父波多野義景と共に許され鎌倉幕府御家人となっている。有常は松田郷を領して松田氏の祖となる。また、義常・義景の甥にあたる波多野義重承久の乱功績越前国志比荘に所領与えられ六波羅探題評定衆に任ぜられ、越前波多野氏の祖となった。義景は後に道元助けて永平寺建立尽くしたことで知られる。 義重の子孫にあたる波多野宣通は元弘の変では幕府側の武将として活躍したが(『太平記』)、鎌倉幕府の滅亡後は別の子孫である野尻氏系統越前波多野氏嫡流となった。この系統波多野通郷は足利義詮信任され室町幕府評定衆となった以降代々幕府評定衆務めたが、明応の政変後の足利義稙足利義澄対立の際には義澄についたために義稙将軍復帰後に京都追われ越前国本拠移した波多野通秀の時代には越前国台頭した朝倉氏と結び、外様衆として再び足利義昭仕えたが、足利義昭朝倉義景没落運命を共にせず、以降越前国子孫伝えたとされる

※この「相模波多野氏」の解説は、「波多野氏」の解説の一部です。
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