相模愛甲氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 22:29 UTC 版)
12世紀の初めに、武蔵七党・横山党の山口隆兼が愛甲内記平大夫を殺害して、相模愛甲郡愛甲庄愛甲に進出した後、その一族が愛甲を称したといわれる。 愛甲季隆は元久2年(1205年)の畠山重忠の乱で、北条義時の軍に属して畠山重忠を射止め愛甲の名を高めたが、建暦3年(1213年)の和田合戦で和田義盛に味方して敗れ、季隆以下討死し没落した。末裔は14世紀末まで、地方豪族として存在していることが確認されるが、その後の動向は不明。
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