甲斐国田中代官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 13:04 UTC 版)
文化2年(1805年)7月26日右筆上座持席で太枡騒動により人心の離れていた田安徳川家甲斐国領を任され、一町田中村の田中陣屋に赴任した。 領民に「孝経」を講義して回ったため孝経代官と呼ばれ、また上矢作村名主広瀬清左衛門妻志計を孝婦として表彰するなど、孝行の普及に務めた。八日市場村の俳人安田漫々に会って勧農を説き、砂混じりの土壌に適した甘草の栽培を奨励した。また、平井村、井上村、下野原村の住民に金川の伏流水部分に井戸を掘って阿膠を製造するよう勧めたが、これは広まらなかった。甲州八珍果を定め、甲斐国で果物栽培を奨励したという説もあるが、正確なところは明らかになっていない。 文化4年(1807年)江戸に戻り減税を訴えたが聞き入れられず、そのまま病を理由に辞職し、文化6年(1809年)5月22日小普請入りした。領民15名の届け出により計画されていた学校創立は中止となり、文政6年(1823年)1月16日石和代官山本大膳により由学館として開校された。
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