浄円寺
浄円寺
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浄円寺
浄円寺
浄円寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 09:09 UTC 版)
浄円寺、浄圓寺、淨圓寺(じょうえんじ)
- 淨圓寺 (札幌市) - 北海道札幌市にある浄土真宗本願寺派の寺院[1]
- 浄円寺 (つがる市) - 青森県つがる市にある浄土宗の寺院[2]
- 浄円寺 (つくばみらい市) - 茨城県つくばみらい市にある浄土宗の寺院[3]
- 浄圓寺 (小山市) - 栃木県小山市にある単立寺院
- 浄円寺 (富士見市) - 埼玉県富士見市にある浄土宗の寺院[4]
- 浄円寺 (三条市) - 新潟県三条市にある真宗大谷派の寺院
- 淨圓寺 (瑞浪市) - 岐阜県瑞浪市にある曹洞宗の寺院
- 浄円寺 (四日市市) - 三重県四日市市にある真宗大谷派の寺院
- 浄円寺 (いなべ市) - 三重県いなべ市にある浄土真宗本願寺派の寺院
- 浄円寺 (京都市) - 京都府京都市にある浄土宗の寺院[5]
- 浄円寺 (佐賀市) - 佐賀県佐賀市にある浄土宗の寺院[6]
脚注
浄円寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 06:05 UTC 版)
「浄ノ池特有魚類生息地」の記事における「浄円寺」の解説
浄の池(じょうのいけ)の所在地は、静岡県旧田方郡伊東町玖須美(くすみ)区井戸川466番地の3(現:伊東市和田1-4-20)、2019年現在の医療法人社団望洋会横山医院の建つ場所(地図)であり、今日の伊東駅、伊東市役所、伊東港の3点を囲んだ伊東市街地中央の住宅密集地に位置していた。 浄の池の所有者は、この池より東南東へ約300メートル離れた場所に所在する浄土宗寺院浄円寺(旧字表記は淨圓寺。伊東町玖須美区179、現:伊東市和田2-3-1・地図)であり、浄の池は同寺院の所有地であった。浄円寺は古くは伊豆半島中央部の賀茂郡冷川村(現:伊豆市東部)にあり、天正年間に伊豆東岸の岡村(現:伊東市内の岡地区)へ移転された。しかし当地が狭隘であったことから寛永元年に再度、岡村より海寄りの和田村へ移転し、和田村の多くの土地を寺領とした。 この和田村が浄の池の所在していた現:伊東市和田地区であるが、この付近一帯は当時、田畑もない荒れ果てた土地であった。そこに自然の池、もしくは微温湯の湧出する水溜りがあったのかは不明であり、浄の池の成因由来についてははっきりしていない。 以下に示す文書は浄の池一帯の土地にまつわる浄円寺に残されている古文書の文面である。 名台之永荒廢間ニ不罷成候間如貴寺御望之井出志摩守其斷申心得候尤之由被申候間御屋敷建立普請候而御作事可被成候悉細和田百姓中ヘ申渡候間可御心易候門前之儀相渡申候間相違有間敷爲其一筆如此候仍如件 慶長十三年七月十六日 觀 譽 殿 金吾惣左衛門 昌花押 古文書の内容は、浄円寺が和田地区への移転を希望する旨の願い出に対する、三島代官・駿府町奉行の井出志摩守(井出正次)側からの許可返答である。また花押にある金吾惣左衛門とは、井出正次の家臣である。このような経緯により、浄の池周辺の和田地区一帯は17世紀前半に浄円寺の寺領となり、当地に寺院が移転造営された。 しかし元禄16年11月23日(1703年12月31日)に発生した元禄関東地震の海嘯(津波)により、庫裏以外の堂宇を流失してしまったため、八世観誉によって少し山側へ寺院が再建された。これが今日の浄円寺の位置である。流失した堂宇のあった境内一帯は、その後幕末の頃まで荒れるがままに放置されていたという。幕末頃より当地周辺に民家が建ち始め、荒れ果てた旧浄円寺の境内にあった池は誰ともなくこの頃より浄の池と呼ばれるようになった。 浄の池の名称の由来はこのように「浄円寺の池」の意味である。だが、前述の経緯により池の所在地(旧境内域)と再建された寺院の境内は直接隣接しておらず、かつ両者の間は明治期以降急速に家屋が立ち並び住宅密集地となったため、一見しただけでは当寺院と当池との関連性は分かり難いものであった。
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