正露丸の歴史
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正露丸の成り立ちは、1830年にドイツ人化学者カール・ライヘンバッハが、ヨーロッパブナの木から木クレオソートを蒸留したことが起源となる。当初は化膿傷の治療に用いられ、後に防腐剤として食肉の保存などに使用され、更に殺菌効果を期待して胃腸疾患に内服されるようになった。日本には1839年長崎の和蘭商館長ニーマンにより持ち込まれ、1856年刊の薬物書には木クレオソートを「結麗阿曹多(ケレヲソート)」と記した記載が見られる。また、1866年刊の「新薬百品考」には、結麗阿曹多の製法、効能、用法が簡潔に記載されている。 1902年、大阪の薬商中島佐一薬房は「忠勇征露丸」の売薬免許を取得。木クレオソート丸剤に「忠勇征露丸」という商品名がつけられ、製造販売を開始した。 一方、帝国陸軍では、「明治三十七八年戦役陸軍衛生史」によると「戦役ノ初メヨリ諸種ノ便宜上結列阿曹篤ヲ丸トシテ之ヲ征露丸ト名ケ出世者全部ニ支給シテ(以下略)」服用を命じた記録が残っており、1904-5年の日露戦争時に「征露丸」を軍人全員に配布していた。正露丸誕生の一説として1903年に陸軍軍医学校によって開発されたとのいわれがあるが、1901年(明治34年)の陸軍医学雑誌ではクレオソート丸と記載があり、前記の資料より1903年以前からあったクレオソート(結列阿曹篤)丸を日露戦争時に「征露丸」と名づけて用いていたことがわかる。 中島は1945年3月に亡くなり、戦前最大のシェアを誇った「忠勇征露丸」の商品名・製造販売権は大幸薬品の前身である柴田製薬所に譲渡される。その後商品名を1949年に「中島正露丸」、1954年に「正露丸」と変えながら、大幸薬品は正露丸販売の9割を寡占する最大手として現在に至っている。
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