柏村と岸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 22:05 UTC 版)
柏村は新安保条約に類したものは必要と考えていたが、岸内閣反対者が安保反対に回ったために、安保反対運動参加者が増大したと考えていた。岸は大統領訪日に政治生命をかけ、柏村にデモ隊を排除し、治安を回復するよう迫る。後年、柏村はこの際の回答につき次のように語っている。 都心と羽田空港を埋めるデモ隊を、警察力で強制排除することは物理的に不可能です。今日の混乱した事態は、反安保、反米もございますが、それらは小さい。それに比べて、この大きなデモのエネルギーは反岸です。このデモ隊は、機動隊や催涙ガスの力だけではなんともなりません。もはや残された道は、ひとつ。総理ご自身が国民の声を無視した姿勢を正すことしかありません。と進言した。・・・岸総理は顔面蒼白となり、『警察は肝心なときに頼りにならない。わしは自衛隊に頼む』と激怒した。 — 『日本戦後警察史』より引用 この事態を受けて、警察内部には総理に忠実であるべきという意見があったが、それは少数であり、各地の警察本部をあずかる警察本部長からは柏村の罷免が行われた場合、一斉辞職する旨の電報が寄せられた。岸は自衛隊出動を図り、防衛庁長官の赤城宗徳に拒否される。保阪正康は、岸が自衛隊出動を図った理由に柏村への怒りと不信の存在があったとし、同時に警察が中立を守った証としている。 この米大統領訪日をめぐって柏村は6月8日に駐日アメリカ合衆国大使ダグラス・マッカーサー2世と面会し、警備に責任が持てない旨を語っているが、柏村のこの行動は『岸回顧録』に特筆され秦郁彦は「よほど心外だったのだろう」と述べている。岸はマッカーサ大使に対し大統領秘書官の脱出劇の原因は、「警察関係者の無気力、無能力」と語っている。
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