東平路
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東平路(とうへいろ)は、中国にかつて存在した路。モンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の山東省聊城市一帯に設置された。
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- ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[八年秋月]詔以真定民戸奉太后湯沐、中原諸州民戸分賜諸王・貴戚・斡魯朶……皇子闊端・駙馬赤苦・公主阿剌海・公主果真・国王査剌温・茶合帯・鍛真・蒙古寒札・按赤那顔・圻那顔・火斜・朮思、並于東平府戸内撥賜有差」
- ^ 『元史』巻95志44食貨志3,「慍里答児薛禅。五戸絲、丙申年、分撥泰安州二万戸」
- ^ 松田2010B,54/56頁
- ^ 松田2010A,123-124頁
- ^ 『元史』巻95志44食貨志3,「勲臣木華黎国王。五戸絲、丙申年、分撥東平三万九千一十九戸」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「東平路、下。唐鄆州、又改東平郡、又号天平軍。宋改東平府、隷河南道。金隷山東西路。元太祖十五年、厳実以彰徳・大名・磁・洺・恩・博・濬・滑等戸三十万来帰、以実行台東平、領州県五十四。実没、子忠済為東平路管軍万戸総管、行総管府事、州県如旧。至元五年、以東平為散府。九年、改下路総管府。戸四万四千七百三十一、口五万一百四十七。領司一・県六」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「[東平路]録事司。県六:須城、下。為東平治所。東阿、中。陽穀、中。汶上、中。寿張、下。平陰。下。至元十一年、以県之辛鎮寨・孝徳等四郷分析他属。明年、改寨為肥城、作中県、隷済寧路、以平陰為下県、仍属東平」
- ^ 『元史』巻95志44食貨3,「帯孫郡王五戸絲、丙申年、分撥東平東阿県一万戸。延祐六年、実有一千六百七十五戸、計絲七百二十斤。江南戸鈔、至元十八年、分撥韶州路楽昌県一万七千戸、計鈔四百二十八錠」
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