東昌路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 07:11 UTC 版)
東昌路(とうしょうろ)は、中国にかつて存在した路。モンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の山東省聊城市一帯に設置された。
- ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[八年秋月]詔以真定民戸奉太后湯沐、中原諸州民戸分賜諸王・貴戚・斡魯朶……皇子闊端・駙馬赤苦・公主阿剌海・公主果真・国王査剌温・茶合帯・鍛真・蒙古寒札・按赤那顔・圻那顔・火斜・朮思、並于東平府戸内撥賜有差」
- ^ 『元史』巻95志44食貨志3,「太宗子闊端太子位。歳賜、銀一十六錠三十三両、段五十匹。五戸絲、丙申年、分撥東平路四万七千七百四十一戸」
- ^ 松田2010,54/56頁
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「東昌路、下。唐博州。宋隷河北東路。金隷大名府。元初隷東平路。至元四年、析為博州路総管府。十三年、改東昌路、仍置総管府。戸三万三千一百二、口一十二万五千四百六。領司一・県六」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「[東昌路]録事司。県六:聊城、中。倚郭。堂邑、中。莘県、中。宋隷大名府、元割以来属。博平、中。茌平、中。丘県。下。本為鎮、隷曲周。至元二年、併入堂邑。二十六年、山東宣慰司言「丘県併入堂邑、差税詞訴相去二百餘里、往復非便。平恩有戸二千七百、升県為宜」。遂立丘県、隷東昌」
[続きの解説]
「東昌路」の続きの解説一覧
- 1 東昌路とは
- 2 東昌路の概要
- 東昌路のページへのリンク