朝庭と朝廷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:00 UTC 版)
「大和朝廷」などという場合の「朝廷」は、「天子の政府」という意味合いで広く用いられる。しかし、日本の古代にあっては「朝庭」と表記することが多く、それは中央の庭を中心にその左右に庁(朝堂)が立ち並ぶ一郭、つまり朝堂院に相当する空間を意味していた。一例として、『日本書紀』天智9年(670年)条には「朝庭の礼儀と行路の相避ることを宣う」の記事があり、これは天智天皇が令(近江令)とともに礼を撰述させたものと考えられているが、ここでは「朝庭」の文字が用いられている。 奈良時代以前のまつりごとは、基本的には口頭による個別案件の処理という形態をとっていた。大夫をはじめとする群臣が召集されて合議のなされることもあったが、それは国政の最重要課題の決定に限られた。口頭政治は、文書とは異なり後にのこらない。しかし、それが文書にまさる正統性をもちえたのは、熊谷公男の指摘するところによれば、ひとつは古代の人びとの「言霊」に対する信仰であり、もうひとつは口頭政務の場が朝庭に限られていたことに由来していた。 ことばに霊力が宿ると考えた古代人にとって、天上世界にも通じる神聖で厳粛な空間と意識された朝庭で、天子から発せられることばは特別な重みをもつものと意識されたのであり、奈良時代以降、律令制がいっそう整備されて、文書による政治が徐々に進んでいくと、日常的な政務は、曹司と呼ばれる朝堂外の役所が扱うことが増えていった。また、官司の機構も複雑化して、官人の数そのものが増加した。こうして朝参はしだいに特定の日と一部の官人に限られるようになっていった。さらに、天皇に日常的な政務の場も大極殿から内裏正殿と移行していった。しかし、政務のうえで文書が重視されるようになってからも、口頭政治の伝統は根強くのこり、重大な決定は依然として朝庭ないし朝堂院で口頭によってなされた。 しかし10世紀後半以降は、律令国家最大の儀式であった元日朝賀はおこなわれなくなり、節会は内裏紫宸殿でおこなわれるようになる。大極殿での儀式は、主なものとしては天皇即位儀、他には国家的な法会(御斎会、仁王会など)、伊勢神宮への奉幣使や斎宮の発遣などをのこすのみとなった。天皇と五位以上の官人との結びつきを確認していく場はもはやさほど必要とされなくなり、公卿や殿上人とのより私的な結びつきが重視されて政治が営まれていくようになる。摂関政治の進行にともない、天皇の政務がもっぱら内裏でおこなわれるようになると、天皇が八省院へ出向くことを称して「八省院行幸」なることばすら生まれた。かくして、八省院、朝庭ともに格式ばった場所として扱われ、天皇の居所は内裏の一空間に固定化されていった。12世紀後半に八省院が焼亡しても再建されなかった理由の一端はそこにあった。
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