最高潮期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 19:14 UTC 版)
黄浦江に面して、ヨーロッパ建築の様式の建物が並び、百貨店のショーウインドウには流行の商品が飾られ、路面電車が走り、街路灯が灯った。上海は「東洋のパリ」ともてはやされた。租界の外では、軍閥による内戦が勃発し、兵士らによる略奪と暴行が繰り返され民衆は苦しんだが、租界内では工部局警察により治安が保持されていた。 イギリス租界の警官はインド人だった。義勇隊や消防隊もあった。アヘン窟は課税されて合法となり、競技場、ドッグレース場、ハイアライなどの賭博場、ダンス・ホール、茶館、魯迅も通った「上海大戯院」に代表される映画館などの歓楽の施設が出現した。 租界を有したことによって、世界への窓口ともなった上海には、あらゆるモダンなものに溢れ、誰でもハリウッド映画やジャズなどのアメリカ文化、カフェなどのフランス文化などを、直接享受することができた。演劇や映画、『良友』や『上海画報』に代表されるグラフ雑誌をはじめとする様々な活字メディアにおける出版なども盛んになった。女性は大胆に流行を追求し、新式の旗袍(チー・パオ)いわゆるチャイナドレスが流行した。 1927年、蔣介石による北伐が開始され、中国国民党が中国大陸を名目上統一した。ただし完全に掌握したのは江蘇省と浙江省の両省のみで、財政収入の大部分を上海に依拠していた。上海金融界の一時貸出、借款そして公債引き受けも重要な財政の柱となった。 1928年6月に、中華民国の首都は北京市から南京市に移され、上海市はこの新首都を間近に控えて、繁栄の絶頂に至る。共同租界の行政機関である上海市参事会の参事は、高額納税者による選挙で選ばれており、租界税収の55パーセントは中国人の負担であったが、中国人の参政権は部分的にしか認められていなかった。加えて租界行政において中国人への教育費の配分が極めて少なく差別的であったことも、中国人による参政権運動を後押ししたと言われており、中国人納税者会は猛然と参政権運動を展開した。 1928年に、定員9の参事会に中国人枠3を認めさせた。この時に、入口に「犬と支那人入るべからず(中国語版)(華人與狗不得入內, Dogs and Chinese Not Admitted)」との看板が建てられていたという都市伝説でも知られた、黄浦公園が中国人にも開放された。その2年後には、中国人参事は5名に増員されている。「モダン都市」「魔都」と形容され、現在でも流布される上海像はこの時期に形成された。そして1927年2月10日には、魯迅が東京・北京・アモイ(廈門)・広州・香港と遍歴を経たうえで、租界都市としての最高潮期を迎えていた上海に辿り着き、虹口地区に居を構えた。
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