暗殺
暗殺未遂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:41 UTC 版)
「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「暗殺未遂事件」の解説
1853年フランツ・ヨーゼフ1世襲撃事件(ドイツ語版)を参照。 1853年2月18日の昼、副官マクシミリアン・カール・オドネル(ドイツ語版)伯爵のみを伴っての散歩中に、ブルク稜堡の胸壁に身を乗り出し、下の堀のところで行われていた軍事訓練の様子を眺めていた。そこを2週間前から暗殺の機会をうかがっていたハンガリー人の仕立物師リベーニ・ヤーノシュに襲われた。リベーニが突進しようとした瞬間、たまたま近くにいた女性がそれを見て大声で叫んだ。フランツ・ヨーゼフ1世はその叫び声に驚いて後ろを振り向いたため、致命傷は逃れることができた。しかし首から胸に突き刺されてフランツ・ヨーゼフは血みどろになり、数秒後にその場に崩れ落ちた。近くの古物市場で買い求めた刃物が凶器であった。副官はただちにサーベルを抜いて犯人の第2の突きを牽制し、そこに肉屋のヨーゼフ・エッテンライヒが駆けつけ、犯人を素手で殴り倒して取り押さえた。フランツ・ヨーゼフは刺された後、駆けつけた人々に向かって「彼を殴ってはならない。殺したりしてはならない」と叫んだという。 フランツ・ヨーゼフは傷口にハンカチを当てて近くのアルブレヒト宮殿に運び込まれ、宮廷劇場付きの医師フリードリヒ・シュティルナーの手当てを受けた。これ以降、医師団は12日の間に30の特別広報を出して、皇帝の容体・回復の様子を逐一伝えた。初診によると、後頭部の骨が損傷しており、安物のナイフの刀身が不潔なものだったために、傷が化膿し始めていた。次第に快方に向かったが、しばらくの間は視力が衰え、一時は失明の恐れさえあった。 この暗殺未遂事件をハンガリーの武力蜂起の新たな兆候かと疑った軍部は、2万の兵を動員して警戒にあたった。しかしこの事件に背後関係はなく、コシュートによるハンガリー革命の失敗を無念に思うハンガリー愛国主義者の単独犯行であることが判明する。フランツ・ヨーゼフは刑一等を減じてやりたいと願っていたとも伝えられるが、即時裁判によって死刑が確定し、リベーニは2月26日の朝にウィーン南郊外の刑場で処刑され、その母親には年金が交付された。 ウィーン市民の多くはそれまでフランツ・ヨーゼフ1世に対してあまり良い感情を抱いていなかったが、この事件のあとは一種の同情心からか親しみが生まれた。弟マクシミリアン大公が皇帝の命が救われたことを神に感謝するために新しい教会を建立しようと呼びかけると、30万人の市民がこれに賛同し、寄付金によってヴォティーフ教会が建立された。シュトラウス2世は、皇帝の命が救われたことを祝って『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』を皇帝に捧げた。フランツ・ヨーゼフ1世の傷の後遺症はしばらく続き、完治するまでに1年近くを要した。
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