映画デビュー
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雪洲が舞台で活動していた頃、アメリカ映画はロサンゼルスのハリウッドが新しい映画製作地となり、多くの映画関係者がそれまでの映画産業の中心地だったニューヨークからハリウッドへ移ってきた。そんなハリウッド草創期に活躍したニューヨーク・モーション・ピクチャー・カンパニー(英語版)(NYMPC)の映画製作者のトーマス・H・インスは、雪洲を映画界にスカウトした人物とされている。自伝によると、『タイフーン』の公演3日目にインスが観客として見に来ていて、芝居が終わったあとに楽屋を訪ね、「『タイフーン』を映画化しないか」と誘ってきて、映画出演の契約を結んだという。しかし、1914年に雪洲が兄に宛てた手紙によると、1913年10月にNYMPCの社長に認められて、俳優としてではなく、脚本家として月給300ドルで雇われたという。その後、雪洲は俳優としてインスと契約を結んだと考えられている。 サンタモニカ近くにインスヴィルと呼ばれる広大な撮影所を構えていたインスは、当時のアメリカ白人社会で日本や日本人が神秘的でエキゾチックな対象として関心を持たれていたことに注目し、日本を題材とした映画を作るため、インスヴィルの敷地内に日本人村のオープンセットを作り、日本人の俳優を集めていた。インスのもとに集まった日本人俳優には青木鶴子、トーマス・栗原、ヘンリー・小谷、木野五郎などがおり、雪洲もこの中に加わった。雪洲はインスの日本物映画の1本目で、鶴子主演の短編映画『おミミさん(英語版)』(1914年)の相手役で映画デビューした。それからもエキゾチックな日本文化を見せることに主眼が置かれたインスの日本物映画に欠かせない人材として、10本以上の短編映画に出演した。これらの映画で共演が続いた鶴子とは、1914年5月に結婚した。 雪洲の最初の長編映画出演作は、桜島の大正大噴火を題材にした『神々の怒り』(1914年)である。この作品では鶴子演じるヒロインの父親を演じ、当時のアジア人俳優の中で最も高額の週500ドルのギャラが支払われた。インスが映画化を提案した『タイフーン(英語版)』(1914年)は、雪洲の2本目の長編映画として作られ、かつ雪洲の映画初主演作となった。中川によると、製作順では『セレクト・シン』(1914年)が実質的な雪洲の主演第1作であるが、興行的に成功するかどうか不安だったため、『タイフーン』のあとに公開されたという。『タイフーン』は興行的成功を収め、トコラモを演じた雪洲も観客の間で大評判となり、『ミルウォーキー・ニューズ』の記事では初めて「スター」と呼ばれた。インスも高まる雪洲の人気に注目し、彼を売り出そうと主演作品を立て続けに公開した。当時の雪洲は日本人だけを演じたわけではなく、『ラスト・オブ・ザ・ライン(英語版)』(1914年)でスー族の酋長の息子を演じるなど、何本かの作品でインディアン役で出演している。
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