意外な結末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 04:52 UTC 版)
しかしこの問題が今日まで建築界に長く尾を引いているのは、今井を設計顧問として村野藤吾自身が設計を引き受けることで決着したことにあった。この問題の核心は、丹下案を推す強度は違えど、審査委員のうち堀口と吉田のふたりが1等当選者を出したがっていたことにある。それを今井と村野と教会側が反対して、1等当選者なしとして終決されたあと、コンペの主催者であったカトリック教会側から要請される形で、今井を設計顧問として村野が実施設計を引き受けたのである。この間にどのような事情が働き、またどのような経緯があったにせよ、表面上に現れた結果だけを見れば、その不明朗性は拭い切れない。なぜあのような審査結果になったのか、それならばなぜコンペをしたのかという根本的な疑問に突き当たるからである。 1等当選者該当者なしの審査結果を受けて、村野藤吾は当初、カトリック信者で第二次世界大戦前の1937年(昭和12年)に東京神楽坂の日本神学校を設計した長谷部鋭吉のところに、世界平和記念聖堂の設計を依頼しに行っている。長谷部は村野と同じ表現派の先輩格にあたり、村野もその作風を高く評価していた。長谷部鋭吉もこの後には、1953年(昭和28年)に芦屋カトリック教会を、1963年(昭和38年)には大阪カテドラル聖マリア大聖堂を竣工させている。建築史家の石田潤一郎が長谷部の遺族から聞いた話によれば、当時現役を引退していた長谷部だったが、村野から話が持ちかけられた時、事が事だけに一旦は引き受ける覚悟を示した。しかしその数日後、村野が突然翻意を告げにやって来て話が流れたというのである。 その理由として考えられるものがあるとすれば、ひとつには紛糾した審査をつぶさに経験した村野藤吾自身が心理的にこの計画自体に深くコミットするようになっていたこと、ふたつめにはラッサール神父の世界平和聖堂建設のビジョンと召命観に村野が感化され、コンペを流して設計が宙に浮いたことへの責任を感じていたことがあげられよう。 結局村野はあらゆる批判を踏み越えて自身で設計することを選び、その道義的な責任や批判をかわすために設計料を受け取らなかったが、これだけの規模の建築の設計を無償で行うことについては、いささかの覚悟と使命感のようなものを村野が感じ始めていたことも否定出来ないであろう。村野藤吾は第二次世界大戦前において既にキャリアの確立した建築家であり、あえて火中の栗を拾うメリットはないからである。予想される様々な批判を無視して確信犯的に突き進んで行くからにはそれ相応の自己確信があったはずであり、求められている建築像への深い理解がまずあって、それに答えられるだけの己の力量を恃んだ自負心と、また自らの手で世界平和記念聖堂を生み出すことへの希望があったに違いない。 本人が多くを語っていない以上、それを確言することは出来ないが、それを傍証する事実としては、その後の1980年(昭和55年)8月3日に村野は自身で設計した西宮トラピスチヌ修道院で、曾孫と共にラッサールからカトリックの洗礼を受けていることがあげられるであろう。
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