弘法も筆の誤り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/20 04:52 UTC 版)
弘法も筆の誤り(こうぼうもふでのあやまり)は、平安時代の日本からのことわざ。
概要
その道に長じたような人であっても、その道において失敗をすることもあるということを意味する[1]。
歴史
弘法にも筆の誤りの弘法とは空海のことである。空海とは天皇と共に三筆と呼ばれる書の名人であった。そのような空海が応天門の扁額を揮毫して、掲げられた應の文字には点が1つ欠けていることに気が付いた。それから空海は下から筆を投げつけて点を打ったという伝説が今昔物語集などで語られている。空海は平安時代の人間なのであるが、弘法も筆の誤りということわざが最初に使われるようになったのは江戸時代中期である。このように伝説とことわざの初出で時代に隔たりがあるのは、伝説では空海は筆を誤って点を欠いたのではなく、なぜが剥落したかわざと欠けさせていたとされており、それから空海は超能力で点を補っていたというようなことが語られていたためである。それから900年ほど後の時代である江戸時代中期に弘法も筆の誤りということわざが使われだして、はじめて空海は筆を誤っていたと認識されるようになった[1]。
空海が筆を投げつけて点を打った際には、周りにいた人々は拍手喝采して感動した。空海は書のみならず、あらゆる分野において秀でた人物であったとされている。この伝説は、どんな名人でも間違いをすることがあるのみでなく、失敗をしてしまったことに対する処理の大切さを伝える逸話でもあった[2]。
脚注
- ^ a b 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,ことわざを知る辞典, 精選版. “弘法にも筆の誤り(こうぼうにもふでのあやまり)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年10月27日閲覧。
- ^ “弘法大師は何を書き間違えたのか?有名な格言「弘法も筆の誤り」の由来 : Japaaan”. Japaaan - 日本文化と今をつなぐウェブマガジン. 2023年10月27日閲覧。
関連項目
弘法も筆の誤り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:41 UTC 版)
空海は嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くことになったが、「應」の一番上の点を書き忘れ、まだれをがんだれにしてしまった。空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれている。このことわざには、現在、「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」という意味だけが残っているが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。
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弘法も筆の誤り
出典:『Wiktionary』 (2020/12/07 19:08 UTC 版)
ことわざ
類義句
参照
翻訳
- 英語: even Homer sometimes nods (en), pride goes before the fall (en)
- ラテン語: quandoque bonus dormitat Homerus (la)
- チェコ語: i mistr tesař se někdy utne (cs)
- 中国語: 善游者溺 (zh) (shànyóuzhěnì), 善骑者堕 (zh)/善騎者堕 (zh) (shànqízhěduò)
- フランス語: il n'y a si bon cheval qui ne bronche (fr), tout le monde peut se tromper (fr)
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