べんしょう‐ほう〔‐ハフ〕【弁証法】
読み方:べんしょうほう
《(ギリシャ)dialektikē/(ドイツ)Dialektik》対話・弁論の技術の意。ソクラテスやプラトンでは、事物の本質を概念的に把握するための方法とされ、アリストテレスでは、真の命題からの論証的推理から区別され、確からしい前提からの推論を意味した。カントは、理性が不可避的に陥る錯覚として、仮象の論理の意に用いた。ヘーゲルは、思考と存在を貫く運動・発展の論理ととらえたが、その本質は思考(概念)の自己展開にある。概念が自己内に含む矛盾を止揚して高次の段階へ至るという論理構造は、一般には正・反・合、定立・反定立・総合という三段階で説明されている。また、マルクスやエンゲルスは、唯物論の立場から、自然・社会・歴史の運動・発展の論理ととらえた。
弁証法
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見田石介は、ヘーゲルとマルクスの研究を通して、弁証法を、思惟、歴史、自然のすべてに通ずる一般的法則だと認識した。 この点は、見田石介著作集第1巻所収「分析的方法とヘーゲルおよびマルクスの弁証法的方法」に続く付録(ヘーゲルとマルクス、1974年10月5日の講演のレジメ全文)の冒頭で以下のように記述されている。 ヘーゲルは、時代的な制限もあり、ことにその観念論の立場の制限があったが、自然、社会、思考の諸過程を深く研究することによって、それらを支配している弁証法の諸法則を発見し、これをはじめて包括的に叙述するという業績をなしとげた。 — 「見田石介著作集第1巻」255頁 この点は、28歳で最初に上梓した「ヘーゲル哲学への道」では、以下のように記述されている。 ヘーゲルの弁証法は、かかる限られた世界のみの法則ではなく、思惟、歴史、自然のすべてに通ずる一般的法則である。 — 「見田石介著作集補巻」19頁 付録(ヘーゲルとマルクス、1974年10月5日の講演のレジメ全文)は見田石介著作集編者が見田逝去後遺族の許諾を得て著作集に収録した草稿であり、遺稿である。 科学の発展の歴史を明確に区切る事は出来ないが、見田の脳裏には、これら三つの領域が存在し、弁証法はそれら三つの領域を支配する一般的法則だと認識していた。 しかし、見田は、この認識を証明せず、言いっ放しのまま逝った。 この一言を断言し、また、見田のヘーゲル理解の誤解を断言するのに、6年の地道な努力を要したが、その過程で発見した見田の限界の原因は、彼が、科学者では無かった事にある。 そして、もう一つの限界は、彼が、大阪市立大学で資本論と初めて対面し、最晩年の業績でも、ヘーゲルと資本論を対置させながら、資本論を絶対視する誤った立場を取った事が原因で、ヘーゲルもマルクスも批判的に継承し乗り越えられなかった点を、残念ながら、指摘せざるを得ない。 科学者は、先行研究の上にそれを乗り越え独創を付け加えて、初めて、自己の存在意義を主張し得る。 神秘的観念論者ヘーゲル ヘーゲル哲学の研究に生涯を捧げた見田石介は、ヘーゲルの観念論者としての側面を、その最初の著作と最晩年の論文の中で、以下のように、説明している。 見田石介は、ヘーゲルを「神秘的観念論者」だったと理解していた。 しかし、見田石介は、ヘーゲルを観念論者としてのみ理解していたのではなく、ヘーゲル論理学の核心たる弁証法の理解においては、むしろ、ヘーゲルが唯物論者だったから、弁証法を、発見できたと理解していた。 ヘーゲル哲学への道(28歳、1934年、清和書店発刊) 以上がその先行哲学と区別されたヘーゲル哲学の特質、優越点であるが、一方またヘーゲル哲学はその観念論という点に於いて、それらのいずれとも共通点をもっていることは勿論である。それどころか、彼の哲学は、それ以前の一切の観念論が有した矛盾を綜合したものとして、哲学史上に於ける最も大規模な観念論であり、従って一切の観念論がもっている神秘性と荒唐無稽さも、ここでは極度に誇張されて現われている。 彼に於いては『存在』は思惟から独立した存在ではなく、存在の本性は思惟であり、存在は本来思惟の外化であるに過ぎない。それ故認識とは本来思惟であるところの実体が、自己自身を自己の対象として疎外し、この自己の他有のうちに再び自己自身を認めることとなる。それ故にこそ思惟の対象に対する絶対的な到達、両者の絶対的な合一が可能であったのである。この点は存在は意識から独立であり、認識は永久にそれに近接してゆくが、それへの絶対的到達は不可能だとする唯物論の立場とは反対である。 見田石介「見田石介著作集補巻」(大月書店、1977年4月27日、43頁) へーゲル論理学と『資本論』(66歳) へーゲルの観念論は、現実の事物を思想とみ、思想をあたかも現実の事物であるかのようにとりあつかうまったく神秘的な観念論であった。 ヘーゲルの弁証法は、ほかにも事情があったが、なによりもこうした現実の事態とたんなる思想とを混同する観念論によって制限され、歪められたものとなったのである。 見田石介「見田石介著作集第1巻」(大月書店、1976年10月12日、111頁) なお、上に述べたように、見田石介は、ヘーゲルを「神秘的観念論者」だったと理解していたが、これは、彼が、資本論を研究する以前からの理解である。 また、先に述べた、見田石介が、ヘーゲルを唯物論者だったと理解していた部分は以下の通りであり、この部分は、見田石介が、ヘーゲルを神秘的観念論者だと述べた、そのすぐ後に記述されている。 ヘーゲルは、「哲学的思惟」すなわち真に科学的な思惟の本性は謙虚なものであって、「個人的な意見をすてて、実在そのものを自己のうえに君臨させることにある」(『小論理学』上、115ページ、岩波書店)ということをいっているが、じっさいかれの観念論はそのうちに、唯物論的な要素をふくんでいたのである。 これでこそ、へーゲルは論理学の革命をおこなうことができたのであり、また観念論の立場にたちながら、弁証法の諸法則の偉大な洞察者、発見者となることができたのである。 見田石介「見田石介著作集第1巻」(大月書店、1976年10月12日、112頁) マルクスは、資本論第一巻あと書き〔第二版への〕で以下のように、ヘーゲル弁証法の「神秘化」に言及しているが、これは、マルクスが、ヘーゲルを観念論者だと理解した上での言及であるから、マルクスもまたヘーゲルを「神秘的観念論者」だと理解していた事になる。 弁証法がヘーゲルの手のなかでこうむっている神秘化は、彼が弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で叙述したということを、決してさまたげるものではない。弁証法はヘーゲルにあってはさか立ちしている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない。 マルクス『資本論第一巻a』(日本共産党中央委員会付属社会科学研究所資本論翻訳委員会訳、新日本出版社、1997年12月5日、29頁) へーゲルから学ぶべきよき点 見田石介「ヘーゲル哲学への道」の序文のみに着目して、見田石介が、この最初の入門書的著作で、紹介しようとしたと、本人が述べた内容を、本人の記述に従い整理すると、以下の五点になる。 序──ヘーゲルから何を学ぶべきか──(19─25頁) 二(へーゲルから学ぶべきよき点、22─25頁) ヘーゲルから学ぶべきものは、弁証法である。ただ弁証法に尽きていると言ってよい。 対立物の同一、或は相互浸透の法則、矛盾(22頁) 発展、歴史の法則(23頁) 否定の否定の法則(24頁) あらゆる観念論者のうちにあって、彼ほど客観的であったものはないと言える。彼は多くの唯物論論者よりも更に唯物論的であった。(24─25頁) 合理主義(25頁) (出典および頁数:見田石介著作集 補巻、大月書店、1977年4月27日第1刷発行) 見田石介の「誤解」見田石介は、1934年に、弱冠28歳で著した「ヘーゲル哲学への道(清和書店発刊)」で、「序──ヘーゲルから何を学ぶべきか」、「初期の宗教研究」に続く「精神現象学 一 近世哲学史に於ける『精神現象学』」において以下のように、「ヘーゲル哲学の特質、優越点」を概説しているが、この部分には、彼のヘーゲル理解の根幹をなす「神秘性」が現れ、この理解は、その次に示すように、最晩年の66歳に著した「へーゲル論理学と『資本論』」では、「まったく神秘的な観念論」として現れている。 見田石介自身が、「一切の観念論がもっている神秘性と荒唐無稽さ」と述べているように、見田石介が、ヘーゲルの観念論の特質を、「神秘的」と述べたのは、実は、見田石介の「誤解」であって、見田石介自身が認めているように、観念論は、すべて、唯物論の立場からは、「神秘的」なのである。 以上がその先行哲学と区別されたヘーゲル哲学の特質、優越点であるが、一方またヘーゲル哲学はその観念論という点に於いて、それらのいずれとも共通点をもっていることは勿論である。それどころか、彼の哲学は、それ以前の一切の観念論が有した矛盾を綜合したものとして、哲学史上に於ける最も大規模な観念論であり、従って一切の観念論がもっている神秘性と荒唐無稽さも、ここでは極度に誇張されて現われている。彼に於いては『存在』は思惟から独立した存在ではなく、存在の本性は思惟であり、存在は本来思惟の外化であるに過ぎない。それ故認識とは本来思惟であるところの実体が、自己自身を自己の対象として疎外し、この自己の他有のうちに再び自己自身を認めることとなる。それ故にこそ思惟の対象に対する絶対的な到達、両者の絶対的な合一が可能であったのである。この点は存在は意識から独立であり、認識は永久にそれに近接してゆくが、それへの絶対的到達は不可能だとする唯物論の立場とは反対である。見田石介「見田石介著作集補巻」(大月書店、1977年4月27日、43頁) へーゲルの観念論は、現実の事物を思想とみ、思想をあたかも現実の事物であるかのようにとりあつかうまったく神秘的な観念論であった。ヘーゲルの弁証法は、ほかにも事情があったが、なによりもこうした現実の事態とたんなる思想とを混同する観念論によって制限され、歪められたものとなったのである。「へーゲル論理学と『資本論』」(見田石介「見田石介著作集第1巻」、大月書店、1976年10月12日、111頁)
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「弁証法」の例文・使い方・用例・文例
- 彼の敬虔は、弁証法的に彼の罪深さに関連する
- 弁証法的で論争好きなアプローチ
- 弁証法の、弁証法に関する、または、弁証法を使用する
- ヘーゲルまたは彼の弁証法の、あるいは、ヘーゲルまたは彼の弁証法に関する
- 対立する力の争いから起こる変化に基づく、弁証法的唯物論の理論的解釈
- 弁証法に熟練した論理学者
- ドイツ人の哲学者で、彼の弁証法的推論の三段法をカール・マルクスが採用した(1770年−1831年)
- この状況からアメリカ史の内的弁証法が生まれた
- ヘーゲルの弁証法において,総合
- 自然の動きが弁証法的発展をとげていると考える思想
- 弁証法において,対立する二概念をより高い概念に発展させる作用
- 弁証法で,定立
- 正反合という,ヘーゲルの弁証法における論理展開の3段階
- 弁証法哲学において,対自という概念
- 弁証法論理において,第1項に置かれる命題
- ヘーゲル弁証法において,論理展開のための最初の命題
- ヘーゲル弁証法において,事物発展の最初の段階
- 弁証法において,物事に内在し次への発展の媒介となる働き
- 弁証法神学という学問
- 弁証法的論理学という学問
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