べんしょう‐ほう〔‐ハフ〕【弁証法】
読み方:べんしょうほう
《(ギリシャ)dialektikē/(ドイツ)Dialektik》対話・弁論の技術の意。ソクラテスやプラトンでは、事物の本質を概念的に把握するための方法とされ、アリストテレスでは、真の命題からの論証的推理から区別され、確からしい前提からの推論を意味した。カントは、理性が不可避的に陥る錯覚として、仮象の論理の意に用いた。ヘーゲルは、思考と存在を貫く運動・発展の論理ととらえたが、その本質は思考(概念)の自己展開にある。概念が自己内に含む矛盾を止揚して高次の段階へ至るという論理構造は、一般には正・反・合、定立・反定立・総合という三段階で説明されている。また、マルクスやエンゲルスは、唯物論の立場から、自然・社会・歴史の運動・発展の論理ととらえた。
弁証法
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弁証法(べんしょうほう、希: διαλεκτική、英: dialectic)矛盾を解消し高い次元へと発展する働き。哲学用語だが評論では、「矛盾の解消」「対立項の折衷」などの意味で用いられることも多い。
哲学の用語であり、現代において使用される場合、ヘーゲルによって定式化された弁証法、及びそれを継承しているマルクスの弁証法を意味することがほとんどである。それは、世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則とされる(ヘーゲルなどにおいては、弁証法は現実の内容そのものの発展のありかたである)。しかし、弁証法という用語が指すものは、哲学史においてヘーゲルの登場よりも古く、ギリシア哲学以来議論されているものであり、この用語を使う哲学者によってその内容は多岐にわたっている。したがって「弁証法=ヘーゲルの弁証法的論理学」としてすべてを理解しようとするのは誤りである。弁証法は、元来哲学の内部で問題とされ、哲学固有の考え方、或いは哲学的論理というものであったが、今日では、ほとんど常識化され、無造作に用いられるようになった[1]。
歴史
弁証法という言葉は、古代ギリシアの哲学に初めて登場し、それは他人との議論の技術、または事物の対立という意味で使われていた。アリストテレスによれば、エレアのゼノンによって創始されたという[2]。
ヘーゲル、マルクスのそれは三枝弁証法だが、フリードリヒ・シュライエルマッハーのような二枝弁証法、シェリングのような四枝弁証法もある。
ソクラテスの対話(問答法)
プラトンの初期対話篇で描かれる、比較的実像に忠実とされるソクラテスから導かれる解釈では、彼が実践した、ある一つの考え方が内在的に伴うことになる矛盾を明らかにするために、その主張に疑問を投げかけながら議論・問答することで、より妥当な真理に近づこうとする方法を意味する。問答法と表現される。
プラトン・アリストテレスの推論技術(弁証術)
更に、プラトン自身の考えが徐々に固まりつつ前面に出てくる初期末の『ゴルギアス』『メノン』から『国家』『パイドロス』等の中期以降の対話篇になると、「ディアレクティケー」(弁証術)は、「対話」「質疑応答」「問答」という元々の素朴な意味から発展し、対象の自然本性に沿って、自在に概念を綜合(総合)・分析(分割)していける、「緻密な推論の技術・能力」を意味するものとして洗練されてくる[3]。(その一部は、後期の『ソピステス』『政治家』等に至り、分割法(ディアイレシス)の名で呼ばれる、より明確なものとして立ち現れてくる。)
プラトンは「ディアレクティケー」(弁証術)と「レートリケー」(弁論術)を対比させながら、「言論(ロゴス)の技術(テクネー)」としての前者の優位性と後者の欠格を主張する。
プラトンのこの「緻密な推論技術」としての「ディアレクティケー」(弁証術)の用法は、弟子のアリストテレスにも受け継がれる。ただし、アリストテレスはこの概念を、「いかなる前提から出発するか」によって、
- 絶対的な真にして第一の前提から出発する「論証」(apodictic, 議論不要・恒真)的な推論(demonstration) (→厳密、学問的、形式的(形式論理学)、『分析論前書』『分析論後書』)
- 蓋然的な通念(endoxa)を前提として出発する「弁証」(dialectic)的な推論 (→社会的、実践的、『トピカ』)
- 不確かな前提から出発する「論争」(eristic)的な推論 (→詭弁、『詭弁論駁論』)
- 誤った前提から出発する「誤謬」推論(paralogism)
等に分割・分類し、再定義しており、「ディアレクティケー」(弁証術)の意味・役割は、「社会通念を適切に処理する手段」という狭い限定された領域に押し込まれることになった。
なお、アリストテレスの推論は、総じて「三段論法」(希: συλλογισμός, syllogism, シュロギスモス)として定型化されており、プラトンの頃よりも、統合(syl-)に向けてより形式化されている。そしてこの統合性が、後代のヘーゲルにおける弁証法とは異なって、無矛盾のうちに進められる。
アリストテレスのこれらについての著作は、後代に『オルガノン』(Organon)としてまとめられ、その技術は総じて「ロギケー」(希: λογική, logikē、羅: logica, ロギカ)と呼ばれるようになり、「論理学」(logic)の基礎となる。
アリストテレス以降
アリストテレス論理学の継承
アリストテレスの著作と思想は、中東を経由して欧州へ再輸入され、中世のスコラ学、更に、近代の哲学者達(特に、大陸合理論、カント)へと継承されていくことになるが、上記のアリストテレスの論理学的分類により、弁証法(dialectic)という言葉や行為そのものは、形式的な論理(論証, demonstration)よりは一段劣る、通俗的・社会的なニュアンスを孕んだものとなる。
(また同時に、神学とも相まって、論理で扱われる「類の概念」(第二実体、普遍者、形相)を、「実体視」するのか(実念論)、名目的なものに過ぎないと考えるのか(唯名論)も、重要な論争点(普遍論争)として、中世スコラ学の頃より浮上してくることになる。スコラ学・大陸合理論・カントの流れは、基本的には前者の実念論的発想が優位な流れであり、これといち早く決別したのが、後者の継承とも言える、フランシス・ベーコン等に始まるイギリス経験論や自然科学だと言える。)
アリストテレス形而上学の破綻と再構築
ただし、中世までと、近世・近代では、アリストテレスの思想を取り巻く状況、その位置付けは大きく変化した。
というのも、アリストテレスの思想・学問体系は、「純粋形相・純粋現実態である不動の動者によって動かされている、地球を中心に円運動する宇宙・世界」といった地球中心説(天動説)的宇宙観・世界観から始まり、「万物がヒュレー(質料)・デュナミス(可能態)から、エイドス(形相)・エネルゲイア(現実態)の実現へと向けて運動する」といった共通法則を、自然学・形而上学(第一哲学)→倫理学→政治学と、人間の実践的領域にまで敷衍・適用するように組み立てられた、緻密かつ壮大なグランドセオリーだったが、コペルニクス等によって太陽中心説(地動説)が解明・普及された16世紀以降、その枠組みが破綻してしまったためである。
したがって、近代哲学においては、アリストテレスのそれに代わる、新しい形而上学(第一哲学)、ひいてはグランドセオリーの再構築が、1つの大きな課題となった。(ヘーゲル等の段階では、これは「Wissenschaft」(ヴィッセンシャフト、学・学知)と呼ばれるようになるが、念頭に置かれているものは同じである。)
英国ではそうした「拙速な枠組みの先決」を避け、経験的・漸進的な学習・解明を重視する経験論・感覚論が主流になったが、ヒュームによって、それを突き詰めると懐疑論へと行き着くことが示されてしまった。他方で欧州大陸では、古典力学の勃興期であった当時の状況を背景に、合理主義的に形而上学・グランドセオリーの再構築が試みられたが(大陸合理論)、独断論の域を出なかった。
イマヌエル・カントは、大陸合理論の理性主義的基調を引き継ぎつつ、他方で「経験によって認識が始まる」という経験論的発想も加味しながら、認識の共通の基盤・土台となっている(とカント等が考えた)「理性」自体を吟味するという逆転の発想(コペルニクス的転回、批判哲学)によって、経験的領域と、非経験的・実践的・形而上学的領域を、(「理性」を共通の基盤・土台としつつ)区別・共存させるという方法で、形而上学やグランドセオリー的枠組みの適正な再生・回復の試みを示そうとした。
このカントの二元論(経験・感覚的「現象」と非経験・非感覚的「物自体」)的な批判哲学的枠組みの再編・乗り越えを、「弁証法」(dialectic)の賞揚と共に志向したのが、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル等、ドイツ観念論に分類される人々である。
ドイツ観念論による弁証法的回答
ドイツ観念論と一口に言っても、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル等の間には、思想内容にかなりの差異があり、互いに批判し合う関係にすらある。そんな彼らに共通しているのは、「ドイツ観念論」(German idealism)という分類・表現に象徴的に表されているように、「ネオプラトニズム」→「ドイツ神秘主義」(エックハルト、クザーヌス等)と続く神秘主義の系譜で継承されてきた、「一者」及び、それとの「合一」への志向・願望である。
彼らはこうした志向の下、カントの二元論的な批判哲学的枠組みを、より主体的な観点から乗り越え、「一者」へと至る道程・枠組みとして組み立て直すべく、それぞれに模索・説明していくことになった。そしてこれは、総じてドイツ観念論の枠組みが、カントの枠組みよりも、経験的・主観的・直観的傾向がより強く、また「先決」的性格・内容が弱いことを意味する。言い換えれば、一見、経験論的でありながら、他方で「一者」を遠方・背後・根底に見つつ、それによって保証された調和的な道程を弁証法的に上っていくという点で、野放図でも懐疑論的でもない、そんな枠組みとしてドイツ観念論の枠組みは位置付けられることになる。
ヘーゲルの場合、こうした「人間の主観(意識・理性)によって掴まれないものは認めない」という姿勢は、ヘーゲルの『法の哲学』の序文における、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」の一文に象徴的に表現されている。
「ミネルヴァの梟(ふくろう)」の例えで有名な、この序文でも端的に述べられているように、ヘーゲルに言わせれば、哲学は、常に現実を後追いしているに過ぎない。現実の歴史がその形成過程を終えてから、ようやくそれを反映するように観念的な知的王国としての哲学が築かれる(「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」)のであって、「哲学の到来はいつも遅すぎる」し、決して「あるべき世界」を教えてくれるようなものでもない。哲学は現実を越えた「彼岸的なもの」を打ち立てることができないし、そんなものは「一面的で空虚な思惟の誤謬の中」にしかない。
つまり、カント等に見られるように、その時々で、あらかじめ、ある形式や真理を先決して、体系を構築したとしても、その真理はその形式・体系の中における限りでの真理であるに過ぎず、現実の将来的見通しをもたらす普遍的真理になるわけでもないし、条件が変わり、その形式・体系が変わるに伴い、雲散霧消して、また別に新たに生み出されるような、仮初の真理に他ならない。したがって、本物の普遍的真理に到達するためには、そうした先決や、時々の形式・体系への固執は、むしろ不要・邪魔であり、避けられなくてはならない。
そのため、彼にとっては、哲学がなすべきことは、あくまでも「時間的に過ぎ去りゆくものの中に、内在的・現在的かつ永遠なものを (外的な形態化されたものの内にも脈打つ、内的な脈動を)概念的に認識する」ことであり、「実体的なものの中にいながら、主体的な自由を保持しようとし、それでいながら、特殊的・偶然的なものの内にではなく、即自かつ対自的に存在するもの(自覚・認識と充足の一体性、形式と内容の一体性)の内にいようとする内的な欲求に従った、現実との熱い和解・平和」である、ということになる。
つまり、哲学は、人間の主観・認識が、己の性質・欲求に従いつつ、主体的かつ漸進的に、試行錯誤を経ながら、現実と調和していく形で、真理・絶対知に到達していく過程・道程として、また、その最終的な結実として、捉えられなくてはならない。
そこで、人間の現実認識が対立・媒介を通して展開し、絶対知に到達していく過程のダイナミズムの内実に着目する、「ヘーゲルの弁証法」と呼ばれるような考え方が、持ち出されることになる。
(なお、こうした論理の厳密な形式性を巡っては、学問的にそれを重視・洗練させていく流れ(フレーゲ、ラッセル、前期ウィトゲンシュタイン等、数学に近接し数理論理学となり(数学の論理主義・形式主義はゲーデルの不完全性定理によって一定の限界が示される)、また分析哲学へとつながる)と、逆に、生の人間・社会の存在様式に寄り添いながら、その形式の根拠を問い直していく流れ((ヘーゲル、マルクス、)フッサール(現象学)、マルティン・ハイデッガー、実存主義、構造主義、ポスト構造主義(ポストモダニズム)等)に、西洋思想が大きく分岐していくことになる。そして、そういった形式的基礎付けを巡る議論とは別に、現実に役立つ経験主義、実証主義、自然科学(応用科学・実学)、あるいはプラグマティズム等の流れも存在している。)
フィヒテ・シェリング等の弁証法
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ヘーゲルの弁証法
ヘーゲルの弁証法と呼ばれているものには、『精神現象学』の中で順序立てて詳細に述べられている「意識の弁証法」と、一般に単純化・形式化された形で言及されている「弁証法(的)論理学」の2種類がある。両者は抽象的には同じものだとも言えるが、叙述のされ方に差異があるので、以下、それらを別々に説明する。
『精神現象学』における弁証法
ヘーゲルが求めるのは、形式主義・操作主義によって獲得される表層的・外形的・空虚な個々の「体系知」(science)とは異なる、自然的実在のありのままの本質的規定・法則性(つまりは、絶対者・真理)の概念的把握である哲学、すなわち「学知」(Wissenschaft)である。そこで、人間の精神(意識)が、己の性質に則って、己にとっての「真・有」と「知」のズレを修正していく自己措定運動(「意識の弁証法」「意識の経験の学」)を経ながら、どのように「学知」(Wissenschaft)の完成へと到達していくのか、それを順序立てて叙述・描写するのが『精神現象学』である。
それは以下のような段階を経る[4]。
矢崎美盛は、こう書いている。
しばしば、ヘーゲル哲学の方法は弁証法であると言われている。そのことは正しい。しかしながら、もしも、ヘーゲルがあらかじめ弁証法という方法を形式的に規定しておいて、これを個々の対象思考に適用するという風に考えるならば、それは由々しき誤解である。ヘーゲルは、おそらく、その全著作の何処を探しても、方法としての弁証法なるものを、具体的思考から切り離して、一般的抽象的に論考したためしはない。彼はただ対象に即して考えるにすぎない。彼が対象に即して、対象の真理を具体的に把握するに適するように、自由に考えながら進んでいった過程が、いわば後から顧みて、弁証法と呼ばるべき連鎖をなしていることが見出されるのに過ぎない。極言すれば、理性的思考がいわゆる正反合の形態を具えているということは、抽象的形式的に基礎づけることは出来ない事柄である。そして、いわゆる弁証法的契機(例えば綜合)の具体性ということも、結局、対象を内包する理性内容の具体性に依存するものに外ならない。それ故に、ヘーゲルの哲学を理解するために、その内容から切り離されたいわゆる弁証法だけをとり出して、これを解釈したり論考したりすることは、むしろ不必要である。—矢崎美盛著『ヘーゲル 精神現象論』大思想文庫 第21、岩波書店、1936年
高山岩男は、こう書いている。
自覚の現象学は自己自身の意識、即ち自己認識を種々の人生経験により考察する現象学である。従って自覚の現象学の内容は人間界である。自然の事物の知識を事とする現象でなく人間界に於ける自覚を事とする経験である。こゝに於ける知は行って知る知であり、自覚の経験は本来的に実践的な生活行動である。前述の意識の段階は姿を変えて自覚の中に内在する。物は知覚的に知られる物ではなく同時に行動の対象としての物である。我は知覚や悟性の自我ではなく行動する自我である。自覚は行動我の自覚である。—高山岩男著『辨證法入門』アテネ文庫 第53、弘文堂、1949年
弁証法(的)論理学
ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される。このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた統合されて保存されているのである。ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。なおカトリックではaufhebenは上へあげること(例:聖体の奉挙Elevation)だけの意。
ソクラテスの対話と同じように、ヘーゲルの弁証法は、暗黙的な矛盾を明確にすることで発展させていく。その過程のそれぞれの段階は、その前の段階に暗黙的に内在する矛盾の産物とされる。 またヘーゲルは、歴史とは一つの大きな弁証法、すなわち奴隷制という自己疎外から、労働を通じて自由と平等な市民によって構成される合理的な法治国家としての自己統一へと発展する「精神」が、実現していく大きな運動だと認識した。ここに弁証法は、(アリストテレスのそれが存在の論理であったのに対し)運動の論理として成立している[5]。しかし、下記に記されているように、この運動性が民衆側中心でなく国家側中心に眺められているという不全さがあった。
マルクス主義における弁証法
カール・マルクスは、世界は諸事象の複合体ではなく諸過程の複合体であることを指摘した点をもってヘーゲルの弁証法を高く評価しているが、ヘーゲルは「頭でっかち」で「逆立ち」しており、彼の考えを「地に足をつけた」ものにしなければならないと主張した[6]。すなわち、ヘーゲルの観念論による弁証法における観念の優位性を唯物論による物質の優位性に反転させることで唯物弁証法(弁証法的唯物論)またはマルクス主義的弁証法が考え出された。世界は観念的な神や絶対知に向かって発展していくのではなく、物質、自然科学に向かって発展していっているとするものである。
この弁証法を歴史の理解に応用したものが史的唯物論(唯物史観)であり、この見方はマルクスやエンゲルス、レーニン、トロツキーの著作に見て取ることができる。この弁証法は、マルクス主義者の思想の核心的な出発点となるものである。
エンゲルスは『自然弁証法』において、唯物論的弁証法の具体的な原則を3つ取り上げた。
- 「量から質への転化、ないしその逆の転化」
- 「対立物の相互浸透(統一)」
- 「否定の否定」
これらがヘーゲルにおいても見られることをエンゲルスも認めている。1は、量の漸次的な動きが質の変化をもたらすということをいっており、エンゲルスは例えば、分子とそれが構成する物体ではそもそもの質が異なることを述べた。2と3に関するエンゲルスの記述は少ない。しかし、2はマルクス主義における実体論でなく関係論と結びつく内容であるといわれる。つまり、対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあるのであって、決して独自の実体として対立しあっているわけではない、ということである。3はヘーゲルのアウフヘーベンと同じである。エンゲルスによれば、唯物論的弁証法は自然から弁証法を見出すが、ヘーゲルのそれはちょうど逆で、思考から自然への適用を行おうとする。
また、エンゲルスは、ヘーゲルの弁証法の正当性は「細胞」「エネルギー転化」「ダーウィンの進化論」の3つの自然科学的発見によって裏付けられたと考えた。
スターリン主義における弁証法的唯物論は、政治的イデオロギーの側面が非常に強かったため、だんだんと教条主義的、また理論的に破綻したものへと変わって行った。ソビエト連邦の哲学者の中で最も有名な人物は、エヴァリッド・イリエンコフ[注釈 3]である。彼は、レーニンの思想にある「弁証法的論理学を発展させるためには、マルクスの『資本論』の認識論をこそ最大限に利用すべきである」という指示に従い、観念論的偏向から解放されたマルクス主義的な弁証法の研究を続けた[7]。
キルケゴールにおける弁証法
キルケゴールはみずからの弁証法を質的弁証法と呼び、ヘーゲルのそれを量的弁証法と呼び区別した。たとえば美的・倫理的・宗教的実存の領域は、質的に本質を異にし、そこにはあれもこれもでなく、あれかこれかの決断による選択、あるいは止揚による総合でなく、挫折による飛躍だけがある。
実存は、成りつつあるものとして無限への無限な運動、また単なる可能でない現実としてつねに時間的であり、その時間における運動は、決断とその反復において、時間における永遠を満たす。矛盾によって各々の実存に対して迫られた決断における真理の生成が、主体性の真理であり、主体的かつ実存的な思惟者は、いわば実存しつつ問題を解く。
絶対弁証法
上記のヘーゲルの、「運動の弁証法」が形式論理内にある弁証法としてはアリストテレスのそれよりも代表的だったところ、西洋に特有の無矛盾の静的な(もしくは無矛盾化する運動を可能とする)形式論理、を超えた形式背理の側から、西田幾多郎が「絶対弁証法」であるとしているものがある。そこでは止揚されるべき矛盾はそれが可能な(形式論理下の)相対矛盾ではなく絶対矛盾であり、その結果、矛盾の止揚を経て自己同一性を保持するのではなく自己矛盾にあり、運動と静止が同時存在する。このようなニュアンスを帯びるため、これは弁証法と呼ぶべきでないとする主張が、同じく形式背理に即して西田の系譜にある木岡伸夫からもその著『<あいだ>を開く』で出ている。しかし、運動が未発ではあっても、怠惰のために静止にあるわけではなく、弁証法運動への精神は旺盛にあるが形式論理にある問題を見据えるために動けないのだ、ということを理解してここに添えておくのが、弁証法を総体的に、東西両洋を超えた視点で理解するために適切である。
否定的弁証法(/ヘーゲルの弁証法を正の弁証法とした意味での「負の弁証法」とも訳せる。)
直上の西田幾多郎が「絶対弁証法」と呼ぶものが、アドルノが1966年の書Negative Dialektikで「否定的弁証法/負の弁証法negative Dialektik 」と呼ぶものにほぼ合致している。時代的に西田の主張が先行している。(1949年刊行の西田幾多郎全集第XI巻に所収の論文「場所的論理と宗教的世界観」では既に使われている)アドルノのその呼称で意味するものは、「存在するものと考えられるものとの間の同一性という概念を前提としないような、またそのような概念のうちに帰着しないで、まさしくその反対物を明示しようとする、つまり、概念とものとの間の、主客の間の、分離志向を、そしてそれらの間の非宥和性を、明示しようとする哲学の起草」である。西田が形式論理への批判という根源的否定性から行きついているに対して、アドルノの“否定的”弁証法には、存在の同一性に基づいたものである形式論理を否定するまでの否定性はない。
脚注
注釈
- ^ 意識は意識外の物を対象とする。一般に真理は対象の方に、確実性は意識の方にあると常識は考える。意識の経験は対象と意識の分裂態における経験である。
- ^ 悟性の立場を通り意識の経験は対象と意識との一致する自覚の状況に進み、真理と確実性とは合致し、意識は他の意識ではなく自己自身の意識である。
- ^ エヴァリッド・ヴァシーリエヴィチ・イリエンコフ(ロシア語: Э́вальд Васи́льевич Илье́нков, ラテン文字転写: Evald Vassilievich Ilyenkov、1924年2月18日—1979年3月21日)。ソビエト連邦の哲学者。マルクス主義哲学を研究。チェルヌイシェフスキー賞受賞者。著書に『カール・マルクスの「資本論」における抽象的なものと具体的なものの弁証法』、『偶像と理想について』。訳書にヘーゲル『大論理学』(ローゼンターリ、シトコフスキーとの共訳)。1979年に自殺。イリエンコフ『資本論の弁証法(カール・マルクスの「資本論」における抽象的なものと具体的なものの弁証法)』花崎皋平訳、合同出版、1979年、pp.369-377
出典
関連文献
- 長谷川宏『新しいヘーゲル』講談社〈講談社現代新書〉、1997年5月。ISBN 978-4061493575。
関連項目
外部リンク
- 山田 有希子, 「弁証法の弁証法的概念にむけて」『宇都宮大学教育学部紀要』 53号 p.47-58, 2003-03-11, 宇都宮大学教育学部
- 原田正行, 「フィヒテの弁証法 : 知識学の第三根本命題について」『高知学園短期大学紀要』 20号 p.35-51, 1989-09-30, 高知学園短期大学
- 嶋崎隆, 「ヘーゲル弁証法の生成 : 「精神の哲学」との同時成立をめぐって」『一橋大学研究年報. 社会学研究』 30巻 p.39-132, doi:10.15057/9556
- 岩佐茂, 「ヘーゲル弁証法の批判的精神」 『一橋論叢』 日本評論社, 107巻 4号 p.540-552, doi:10.15057/12428
- 牧野広義, 「ヘーゲル論理学における矛盾論」 京都大学哲学論叢刊行会 『哲学論叢』 3巻 p.67-81 1976年
- 金卷賢字 ,「ヘーゲル辯證法における『矛盾』の論理」『商學討究』 6巻 3号 p.1-25 1932年, NCID AN00114051, 小樽高等商業學校研究室
- 将積茂, 「「弁証法とは何か」におけるK.ポパーの弁証法批判」『科学哲学』 3巻 1970年 p.59-72, doi:10.4216/jpssj.3.59, 日本科学哲学会
- 『弁証法』 - コトバンク
弁証法
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見田石介は、ヘーゲルとマルクスの研究を通して、弁証法を、思惟、歴史、自然のすべてに通ずる一般的法則だと認識した。 この点は、見田石介著作集第1巻所収「分析的方法とヘーゲルおよびマルクスの弁証法的方法」に続く付録(ヘーゲルとマルクス、1974年10月5日の講演のレジメ全文)の冒頭で以下のように記述されている。 ヘーゲルは、時代的な制限もあり、ことにその観念論の立場の制限があったが、自然、社会、思考の諸過程を深く研究することによって、それらを支配している弁証法の諸法則を発見し、これをはじめて包括的に叙述するという業績をなしとげた。 — 「見田石介著作集第1巻」255頁 この点は、28歳で最初に上梓した「ヘーゲル哲学への道」では、以下のように記述されている。 ヘーゲルの弁証法は、かかる限られた世界のみの法則ではなく、思惟、歴史、自然のすべてに通ずる一般的法則である。 — 「見田石介著作集補巻」19頁 付録(ヘーゲルとマルクス、1974年10月5日の講演のレジメ全文)は見田石介著作集編者が見田逝去後遺族の許諾を得て著作集に収録した草稿であり、遺稿である。 科学の発展の歴史を明確に区切る事は出来ないが、見田の脳裏には、これら三つの領域が存在し、弁証法はそれら三つの領域を支配する一般的法則だと認識していた。 しかし、見田は、この認識を証明せず、言いっ放しのまま逝った。 この一言を断言し、また、見田のヘーゲル理解の誤解を断言するのに、6年の地道な努力を要したが、その過程で発見した見田の限界の原因は、彼が、科学者では無かった事にある。 そして、もう一つの限界は、彼が、大阪市立大学で資本論と初めて対面し、最晩年の業績でも、ヘーゲルと資本論を対置させながら、資本論を絶対視する誤った立場を取った事が原因で、ヘーゲルもマルクスも批判的に継承し乗り越えられなかった点を、残念ながら、指摘せざるを得ない。 科学者は、先行研究の上にそれを乗り越え独創を付け加えて、初めて、自己の存在意義を主張し得る。 神秘的観念論者ヘーゲル ヘーゲル哲学の研究に生涯を捧げた見田石介は、ヘーゲルの観念論者としての側面を、その最初の著作と最晩年の論文の中で、以下のように、説明している。 見田石介は、ヘーゲルを「神秘的観念論者」だったと理解していた。 しかし、見田石介は、ヘーゲルを観念論者としてのみ理解していたのではなく、ヘーゲル論理学の核心たる弁証法の理解においては、むしろ、ヘーゲルが唯物論者だったから、弁証法を、発見できたと理解していた。 ヘーゲル哲学への道(28歳、1934年、清和書店発刊) 以上がその先行哲学と区別されたヘーゲル哲学の特質、優越点であるが、一方またヘーゲル哲学はその観念論という点に於いて、それらのいずれとも共通点をもっていることは勿論である。それどころか、彼の哲学は、それ以前の一切の観念論が有した矛盾を綜合したものとして、哲学史上に於ける最も大規模な観念論であり、従って一切の観念論がもっている神秘性と荒唐無稽さも、ここでは極度に誇張されて現われている。 彼に於いては『存在』は思惟から独立した存在ではなく、存在の本性は思惟であり、存在は本来思惟の外化であるに過ぎない。それ故認識とは本来思惟であるところの実体が、自己自身を自己の対象として疎外し、この自己の他有のうちに再び自己自身を認めることとなる。それ故にこそ思惟の対象に対する絶対的な到達、両者の絶対的な合一が可能であったのである。この点は存在は意識から独立であり、認識は永久にそれに近接してゆくが、それへの絶対的到達は不可能だとする唯物論の立場とは反対である。 見田石介「見田石介著作集補巻」(大月書店、1977年4月27日、43頁) へーゲル論理学と『資本論』(66歳) へーゲルの観念論は、現実の事物を思想とみ、思想をあたかも現実の事物であるかのようにとりあつかうまったく神秘的な観念論であった。 ヘーゲルの弁証法は、ほかにも事情があったが、なによりもこうした現実の事態とたんなる思想とを混同する観念論によって制限され、歪められたものとなったのである。 見田石介「見田石介著作集第1巻」(大月書店、1976年10月12日、111頁) なお、上に述べたように、見田石介は、ヘーゲルを「神秘的観念論者」だったと理解していたが、これは、彼が、資本論を研究する以前からの理解である。 また、先に述べた、見田石介が、ヘーゲルを唯物論者だったと理解していた部分は以下の通りであり、この部分は、見田石介が、ヘーゲルを神秘的観念論者だと述べた、そのすぐ後に記述されている。 ヘーゲルは、「哲学的思惟」すなわち真に科学的な思惟の本性は謙虚なものであって、「個人的な意見をすてて、実在そのものを自己のうえに君臨させることにある」(『小論理学』上、115ページ、岩波書店)ということをいっているが、じっさいかれの観念論はそのうちに、唯物論的な要素をふくんでいたのである。 これでこそ、へーゲルは論理学の革命をおこなうことができたのであり、また観念論の立場にたちながら、弁証法の諸法則の偉大な洞察者、発見者となることができたのである。 見田石介「見田石介著作集第1巻」(大月書店、1976年10月12日、112頁) マルクスは、資本論第一巻あと書き〔第二版への〕で以下のように、ヘーゲル弁証法の「神秘化」に言及しているが、これは、マルクスが、ヘーゲルを観念論者だと理解した上での言及であるから、マルクスもまたヘーゲルを「神秘的観念論者」だと理解していた事になる。 弁証法がヘーゲルの手のなかでこうむっている神秘化は、彼が弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で叙述したということを、決してさまたげるものではない。弁証法はヘーゲルにあってはさか立ちしている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない。 マルクス『資本論第一巻a』(日本共産党中央委員会付属社会科学研究所資本論翻訳委員会訳、新日本出版社、1997年12月5日、29頁) へーゲルから学ぶべきよき点 見田石介「ヘーゲル哲学への道」の序文のみに着目して、見田石介が、この最初の入門書的著作で、紹介しようとしたと、本人が述べた内容を、本人の記述に従い整理すると、以下の五点になる。 序──ヘーゲルから何を学ぶべきか──(19─25頁) 二(へーゲルから学ぶべきよき点、22─25頁) ヘーゲルから学ぶべきものは、弁証法である。ただ弁証法に尽きていると言ってよい。 対立物の同一、或は相互浸透の法則、矛盾(22頁) 発展、歴史の法則(23頁) 否定の否定の法則(24頁) あらゆる観念論者のうちにあって、彼ほど客観的であったものはないと言える。彼は多くの唯物論論者よりも更に唯物論的であった。(24─25頁) 合理主義(25頁) (出典および頁数:見田石介著作集 補巻、大月書店、1977年4月27日第1刷発行) 見田石介の「誤解」見田石介は、1934年に、弱冠28歳で著した「ヘーゲル哲学への道(清和書店発刊)」で、「序──ヘーゲルから何を学ぶべきか」、「初期の宗教研究」に続く「精神現象学 一 近世哲学史に於ける『精神現象学』」において以下のように、「ヘーゲル哲学の特質、優越点」を概説しているが、この部分には、彼のヘーゲル理解の根幹をなす「神秘性」が現れ、この理解は、その次に示すように、最晩年の66歳に著した「へーゲル論理学と『資本論』」では、「まったく神秘的な観念論」として現れている。 見田石介自身が、「一切の観念論がもっている神秘性と荒唐無稽さ」と述べているように、見田石介が、ヘーゲルの観念論の特質を、「神秘的」と述べたのは、実は、見田石介の「誤解」であって、見田石介自身が認めているように、観念論は、すべて、唯物論の立場からは、「神秘的」なのである。 以上がその先行哲学と区別されたヘーゲル哲学の特質、優越点であるが、一方またヘーゲル哲学はその観念論という点に於いて、それらのいずれとも共通点をもっていることは勿論である。それどころか、彼の哲学は、それ以前の一切の観念論が有した矛盾を綜合したものとして、哲学史上に於ける最も大規模な観念論であり、従って一切の観念論がもっている神秘性と荒唐無稽さも、ここでは極度に誇張されて現われている。彼に於いては『存在』は思惟から独立した存在ではなく、存在の本性は思惟であり、存在は本来思惟の外化であるに過ぎない。それ故認識とは本来思惟であるところの実体が、自己自身を自己の対象として疎外し、この自己の他有のうちに再び自己自身を認めることとなる。それ故にこそ思惟の対象に対する絶対的な到達、両者の絶対的な合一が可能であったのである。この点は存在は意識から独立であり、認識は永久にそれに近接してゆくが、それへの絶対的到達は不可能だとする唯物論の立場とは反対である。見田石介「見田石介著作集補巻」(大月書店、1977年4月27日、43頁) へーゲルの観念論は、現実の事物を思想とみ、思想をあたかも現実の事物であるかのようにとりあつかうまったく神秘的な観念論であった。ヘーゲルの弁証法は、ほかにも事情があったが、なによりもこうした現実の事態とたんなる思想とを混同する観念論によって制限され、歪められたものとなったのである。「へーゲル論理学と『資本論』」(見田石介「見田石介著作集第1巻」、大月書店、1976年10月12日、111頁)
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弁証法
「弁証法」の例文・使い方・用例・文例
- 彼の敬虔は、弁証法的に彼の罪深さに関連する
- 弁証法的で論争好きなアプローチ
- 弁証法の、弁証法に関する、または、弁証法を使用する
- ヘーゲルまたは彼の弁証法の、あるいは、ヘーゲルまたは彼の弁証法に関する
- 対立する力の争いから起こる変化に基づく、弁証法的唯物論の理論的解釈
- 弁証法に熟練した論理学者
- ドイツ人の哲学者で、彼の弁証法的推論の三段法をカール・マルクスが採用した(1770年−1831年)
- この状況からアメリカ史の内的弁証法が生まれた
- ヘーゲルの弁証法において,総合
- 自然の動きが弁証法的発展をとげていると考える思想
- 弁証法において,対立する二概念をより高い概念に発展させる作用
- 弁証法で,定立
- 正反合という,ヘーゲルの弁証法における論理展開の3段階
- 弁証法哲学において,対自という概念
- 弁証法論理において,第1項に置かれる命題
- ヘーゲル弁証法において,論理展開のための最初の命題
- ヘーゲル弁証法において,事物発展の最初の段階
- 弁証法において,物事に内在し次への発展の媒介となる働き
- 弁証法神学という学問
- 弁証法的論理学という学問
弁証法と同じ種類の言葉
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