年の変わり目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 20:43 UTC 版)
西ヨーロッパにて旧式の日付を記す制度が、イエスの化身を基にしたシステムに打って変わった際、多くの人々が年の始まりをクリスマス、受胎告知および復活祭などといった、キリスト教の祝祭日以外の日付に選んだ。このように、時代や地域次第で、年代それぞれの日付はまた異なるのだが、それは年代学的にはやや違った方式である。 AUC753年(現在の紀元1年)の3月25日は、すなわち、概念上にはイエスの化身が起こった日付となる。史上初の「受胎告知方式」だったこの暦法は、アルルにて9世紀末にみられたものであり、それからやがてブルゴーニュ地方およびイタリア北部に広まっていった。一般的にはその制度は用いられなかったが、ピサでそれが採用されて以来1750年まで残存した当時は、『「calculus pisanus」という呼び名で知られていた』。 AUC753年の12月25日は、すなわち、概念上ではキリストが生誕した日付となる。その暦法は、「キリストの降誕方式」と呼ばれたのだが、それは中世紀の前半に、ベーダ・ヴェネラビリスによって広められた。クリスマスから計算し始めるこの制度は、フランスやイングランドおよび多くの西側ヨーロッパの国々(スペインを除く)にて、12世紀まで(正確には、受胎告知方式に変更されるまで)採用され続けた。例外としてドイツの場合は、13世紀の四分の一程まで取り入れられた。 AUC754年の3月25日ーそれは、二つ目の「受胎告知方式」であったーは、フルーリー修道院(英語版)にて11世紀前半に考案されたという説があるが、その暦法はシトー会の修道士によって広められた。フィレンツェはその暦法を、ピサで導入された暦に対抗するために『「calculus florentinus」という名前で採用した。それはやがてフランスやイングランドにおいてもーそこでは12世紀後半から1752年まで持続したのであるがー使われた』。 AUC754年の復活祭ーそれは「mos gallicanus(フランス方式)」と言われ、移動祝日と結びついていた-は、フィリップ2世によってフランス中に広められた。しかしながら、それは優勢な選ばれた人々以外には広まらなかった。 こういった方式を採用すると、同じ日が1099年、もしくは1100年および1101年になることもありえる。
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