帰国後の動向
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帰国後は招待してくれる大学がなく、理研の長岡半太郎研究室に所属し、1929年にはヴェルナー・ハイゼンベルク、ポール・ディラックを日本に招いている。1930年 11月 東京大学より理学博士。論文は 「On the L-absorption spectra of the elements from Sn(50) to W(74) and their reration to the atomic constitution」(錫(50)よりタングステン(74)に至る諸元素のL吸収スペクトル並に其の原子構造との関係に就て)。 1931年7月に理研で仁科研究室を立ち上げ、当時国内では例のなかった量子論、原子核、X線などの研究を行なった。翌年に中性子が発見されるとX線の代わりに宇宙線を研究対象に加えた。1937年10月にボーアを日本に招いている サイクロトロン(核粒子加速装置) 1937年4月には小型27インチのサイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させ、そしてその小型サイクロトロンで1939-1940年に実験を始めた。1939年2月には200トンもの大型サイクロトロン本体を完成させ、1944年1月から実験を始めた。
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帰国後の動向
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1882年(明治15年)、旧:東京大学の医学部教諭となる。翌1883年(明治16年)に魔鏡についての論文を発表し、これも『Annalen der Physik und Chemie』に投稿した。また、同年には『物理学教授法』という教科書も書いている。1884年(明治17年)に東京数学会社が改組して東京数学物理学会(現在の日本数学会および日本物理学会)となると、その初代・学会委員長となった。なお選挙では菊池大麓が選出されたが、菊池が直後に外遊するため次点の村岡が繰り上がっている。 1888年(明治21年)に第一高等中学校(大学予備門の後身でのちの一高)の教諭となり、この年に再び渡欧した。このドイツ滞在中にハインリヒ・ヘルツの電磁波の発生実験に立ち会うことができた。当時大学院生だった長岡半太郎に現地からこれを伝え、長岡は追試験を行っている。 帰国後には、第一高等学校教諭や女子高等師範学校の校長心得を務めた後、1891年(明治24年)8月に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)の2代目の校長に就任した。一方で魔鏡に関する論文『日本魔鏡の研究』を提出し、同年8月24日に帝國大學(現:東京大学)から理学博士の学位を得た。これ以前に理学博士を国内で取得したのは1888年(明治21年)の山川健次郎ら日本最初の理学博士5名がいるが、これは「帝國大学評議会の議を経て」授与されたもので、論文提出による取得は村岡が国内初であった。なお、1893年(明治26年)に長岡半太郎が2人目の論文による取得者となっている。
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