完成まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 05:55 UTC 版)
「エイセ・エイシンガ・プラネタリウム」の記事における「完成まで」の解説
エイセ・エイシンガは、1744年にドロンリプ(英語版)の羊毛梳毛業者の家に生まれ、1768年に結婚して独立し、フラーネカーに移り住んで羊毛梳毛業を営んだ。エイシンガは、公教育は初等教育しか受けていなかったが、数学と天文学に並々ならぬ関心を持っており、少年時代から、週に一度はフラーネカーに通ってユークリッド原論を学び、数学や天文学に関する本の執筆もしていた。また、レーワルデンの数学者・装置開発者ヴィツェ・フォプス(ドイツ語版)に影響を受け、その金星太陽面通過の観測に立ち合い、装置作成や天体観測にも関心を深めていった。 1774年の惑星会合を経て、エイシンガが作ろうと決めた装置は、誰もがみて惑星の運動を直観的に理解できるように、機械で動く太陽系を縮尺した模型、即ちプラネタリウムであった。現代では、プラネタリウムといえば、半球型の天井に投影した星空を眺める、投影式プラネタリウムのことだが、元々は「惑星」を意味する"planet"と「場所」を意味する"arium"が合体した言葉であって、エイシンガの時代は機械式の惑星運行儀のことであった。その頃、プラネタリウムのほとんどは卓上型の装置であったが、エイシンガのプラネタリウムは自宅の居間の天井に大規模な装置を据え付ける、独創的なものであった。 エイシンガは、1774年にプラネタリウムの製作を開始したが、本業に加えて、市の参事会員の仕事もしていたので、その作業は全て空き時間に行うこととなり、7年がかりの作業となった。プラネタリウムについての予備知識もほとんど持たないところから、計算と製図を始め、一部の部品の製作を父親に、時計仕掛けの心臓部となる真鍮製のぜんまいを時計職人に依頼した他は、全ての車輪・歯車、1万本に及ぶ歯車用の鉄釘などをエイシンガ自身の手で作成した。エイシンガは、居間の天井の下にもう一つの天井を設け、その見せかけの天井にプラネタリウムを作り、両者の間にある「天井裏」にプラネタリウムを作動させる時計仕掛けを組み込んだ。当初エイシンガは、最適な長さの振り子を動かすため、居間に隣接する作り付けの寝台の上に穴を開けて、そこを振り子が振れるように設計していたが、これは妻の猛反対にあい、振り子を短くして歯車なども設計し直す、といったこともあった。それでも、1778年には機械部分を作動させられるところまでこぎ着け、1780年2月には塗装など外観に関する部分以外が仕上がり、1781年5月に全ての作業を終え、プラネタリウムが完成した。 プラネタリウムの機械部分が完成した直後、フラーネカーにあった大学の哲学教授をしていた数学者ヤン・ヘンドリク・ファン・スウィンデン(英語版)が、エイシンガが作っている装置の噂を聞きつけて見学に訪れた。プラネタリウムを詳しく調べたファン・スウィンデンは、1ヶ月後にも再び訪れ、エイシンガのプラネタリウムが如何に優れたものかを理解すると、このプラネタリウムの説明を知人達に書き送り、更に解説書まで書き上げて、その年の内、エイシンガがプラネタリウムの塗装を終える前に発表した。ファン・スウィンデンの本が世に出ると、エイシンガの家には来訪者が引きも切らなくなり、作業を邪魔されないためにエイシンガは、一部の友人、学者を除き来客を締め出さざるを得なくなった。しかし、プラネタリウムが完成すると一転、エイシンガはあらゆる人に門戸を開き、近隣の人々だけでなく、国中から旅をしてまで訪れる人々も現れた。 エイシンガは、プラネタリウムが完成しても、自身の計画が完結したとは考えておらず、その後も細かい改良を加えていった。また、1784年には自身の手による豊富な図解付きの説明書を執筆し、二人の息子に遺している。
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