奥医師
奥医師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:26 UTC 版)
文政元年(1818年)10月26日、大河内重則の婿養子として大河内家を継ぐことが決まり、藤塚町佐治与九郎借家に移った。12月12日評定所の認可で小普請医師となり、4月15日藩主徳川斉朝に御目見し、9月16日大河内存真を襲名した。 文政4年(1821年)8月1日、師浅井貞庵が邸内に設置した静観堂講舎(後の医学館)において書生取締方を命じられた。文政12年(1829年)11月番医師に進み、天保元年(1830年)2月21日御薬園御用手伝を兼ねた。7月12日奥医師打込として前藩主斉朝の治療を担当し、天保2年(1831年)1月20日免じられた。天保7年(1836年)7月10日医学館世話役を兼務した。 天保10年(1839年)3月23日江戸詰中の藩主徳川斉温が急変したため、斉朝の命で江戸に急行するも間に合わず、4月3日帰国した。8月14日奥医師打込として斉温室俊恭院を担当した。天保11年(1840年)10月2日俊恭院死去に伴い、10月15日町在医師医業吟味方懸りに転じた。天保14年(1843年)6月医学館世話役を解かれ、閏9月29日奥詰医師として帰国した現藩主徳川斉荘を担当し、天保15年(1844年)11月8日には町在医師医業吟味方懸りも解かれた。 弘化2年(1845年)7月斉荘が死去すると、幼年の新藩主徳川慶臧のため、弘化3年(1846年)2月26日小児科を本業とし、閏5月22日御薬園御用手伝を辞職した。 嘉永2年(1849年)8月15日奥医師として徳川斉朝匙役を勤めたが、嘉永3年(1850年)1月28日流注を発症し、3月30日死去した。12月27日奥医師となり、嘉永4年(1851年)1月4日江戸に上り、徳川慶恕の帰国に同伴して3月22日帰着した。 嘉永5年(1852年)3月26日慶恕側室多満が懐妊し、5月10日誕生御用を命じられたが、病気のためこれを断った。8月15日全快し、誕生した栄姫の療養に携わったが、嘉永6年(1853年)6月1日夭折した。その後、多満の寛之助出産、側室由起の尭之助出産にも関わったが、いずれも夭折している。
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