天狗党の発生
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文政12年(1829年)9月、重病に伏していた水戸藩第8代藩主・徳川斉脩は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・榊原照昌らは、斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は後継者として不適当であるから、代わりに斉脩正室・峰姫の弟でもある第11代将軍徳川家斉の二十一男・清水恒之丞(のちの紀州藩主徳川斉彊)を迎えるべきだと主張し、藩内門閥層の大多数も、財政破綻状態にあった水戸藩へ幕府からの援助が下されることを期待してこの案に賛成した。これに対して、同年10月1日、藤田東湖・会沢正志斎ら藩内少壮の士は、血統の近さから敬三郎を藩主として立てるべきと主張して、徒党を組んで江戸へ越訴した。10月4日に斉脩が没し、敬三郎を後継者にという斉脩の遺書が示された。この遺書を掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日に幕府から斉昭(藩主となり敬三郎から斉昭と名乗る)の家督相続承認を得ることに成功した。こうして斉昭が水戸藩第9代藩主となると、擁立に関わった藤田・会沢らが登用され、斉昭による藩政改革の担い手となった。 こうして権力を得た一派は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、天狗党と呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、弘化2年(1845年)10月に老中阿部正弘に対し、江戸では高慢な者を「天狗」と言うが、水戸では義気があり、国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言うのだと主張している。とはいえ、天狗党という集団はその内部においても盛んに党争と集合離散を繰り返しており、それぞれの時期においてその編成に大きな差異が見られる。まず天狗党は後述する「勅書」返納問題において鎮派・激派に分裂したうえ、さらに激派内でも根拠地別に筑波勢・潮来勢などの集団があってそれぞれ独自に動き回っていたことから、『水戸市史 中巻(五)』においては、一味の総称である天狗党の呼称を、最終的に京へ向かって西上した集団に限定して使用している。 この時期において天狗党への反対派の中心人物となったのは門閥出身の結城朝道(寅寿)であった。もともと朝道は斉昭に重用されていたが、穏健な政策を志向する結城の下には次第に斉昭の藩主就任に反対して弾圧された門閥層や、かつて東湖の父・藤田幽谷と熾烈な党争を繰り広げた立原翠軒派の残党など、天狗党主導の政策に反発する者達が集まり、次第に勢力を増していった。斉昭と親密であった水野忠邦が失脚すると、後任の阿部正弘は、天保15年(1844年)5月に斉昭を強制的に隠居させ、朝道に水戸藩政の修正を命じた。斉昭はその後一時復帰した忠邦によって謹慎を解かれ、第10代藩主徳川慶篤の後見として復権。嘉永6年(1853年)の黒船来航を期に斉昭が幕府から海防参与を命じられると、水戸藩では軍政改革を中心とした安政改革が進められ、改革派を中心に尊王攘夷派が形成された。
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