大樋銀山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:31 UTC 版)
大樋銀山と呼ばれた鉱山があった。産出したのは主に鉛であったが、鉛に混じってわずかに銀が出たので、価値の高い銀を鉱山の名称にしたと考えられる。鉛は、当時の新兵器鉄砲に欠かせない軍需物資だった。1695年(元禄8年)の地元文書には、人足312人・牛212疋がいたと記録されている。 『信府統記』には、「鉱山ハ大野川山ヨリ西北道法一里余、此鉛山先城主ノ時ヨリ在リ来リテ、始レル時節分明ナラズ、当家ニ至リテモ忠清公ヨリ忠職公迄ノ間繁昌シテ、諸国ヨリ金掘其外商人モ入込ミ、町屋モ余程アリテ其絵図今ニ残レリ、忠直公ノ時モ少シハ盛リケレドモ次第ニ衰ヘ、三十年バカリ以来鉛曽テ出ザル」とある。これには「始レル時節分明ナラズ」とあるが、武田氏が天正年間(1573年~1592年)しばらく松本地方を領有したときにこの鉱山を発見・採掘したとの伝承が残る。なお、『信府統記』は1724年(享保9年)12月の完成、水野忠清の藩主在位は1642年~1647年、水野忠職は1647年~1668年、水野忠直は1668年~1713年である。 1707年(宝永4年)の富士山宝永大噴火に伴う大地震により、鉱山が壊滅し、多数の負傷者が出たとの稗史がある。しかし、これは『信府統記』の記述に符合しない。
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