大喪の儀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:20 UTC 版)
1951年(昭和26年)6月7日に「貞明皇后(ていめいこうごう)」と追号され(昭和天皇勅定)、宮内庁長官より同年6月9日に官報告示が執り行われた。「貞明」の出典は、『易経』の一文「日月之道、貞明者也」(日月の道はただしくして明らかなり)から採られた。 「大喪の儀」は6月22日に行われ、長男の昭和天皇は以下の誄辞(るいじ、追悼の言葉)を述べている。 「裕仁」敬みて、皇妣(母)の霊前に白す、皇考(父・先帝)の喪を服してより二十有五年、慈恩を仰き奉養に勉め楽を尽すの一日も長からむことを願へるに俄に大故に遭ふ、驚愕悲痛追慕止むなし、親(櫬)殿に殯宮に親祭すること三十余日、茲に礼を具へ儀を挙け将に多摩皇考山陵の次に斂葬せむとす、霊車停め難く幽明永へに違ふ嗚呼哀しいかな — 昭和26年6月22日「大喪の儀」にて 御陵は多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)。歴代皇后の中で、初めて関東の地に御陵が造営された。 日本国憲法と現行の皇室典範に基づき葬られた最初の皇后である。戦後の新皇室典範では皇族の葬儀の規定が設けられていないこと、また当時は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下であることから国葬とすることが憚られる状況にあった。このため、国葬の有無を明確にしないまま「事実上の国葬」として扱われ、一連の大喪儀の儀式が行われた。
※この「大喪の儀」の解説は、「貞明皇后」の解説の一部です。
「大喪の儀」を含む「貞明皇后」の記事については、「貞明皇后」の概要を参照ください。
- 大喪の儀のページへのリンク