大同倶楽部とは? わかりやすく解説

大同倶楽部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/16 19:05 UTC 版)

大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、明治時代日本政党である。時期をずらして、民党の大同倶楽部と、吏党の大同倶楽部の二つが結成されたが、いずれも短命であった。

大同倶楽部 (1889年–1890年)

日本の政社
大同倶楽部
成立年月日 1889年5月10日[1]
前身政党 大同団結運動政社派[1]
解散年月日 1890年8月17日[1]
後継政党 立憲自由党[1]
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大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、自由民権運動期に誕生した日本の政党。大同団結運動の内紛の中で誕生したが、帝国議会の創設に伴い、立憲自由党に合流した。

結党

帝国議会の開設を見越して繰り広げられた反政権(藩閥)運動(自由民権運動)は、中核を占めた自由党が、党内の不満分子の暴発や政府の弾圧に耐えかねて明治17年(1884年)に解散して一旦逼塞したが、明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布に合わせて大赦で歴代の政治犯が釈放されたのをきっかけに、民権派の勢力(旧自由党、および立憲改進党)の再結集の動きが活発になった(大同団結運動[2]

この時、団結後の運動の形態として、まとまった政治団体を志向する河野広中ら政社派と、ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派の対立が表面化した。更に、大同団結運動の主導者であった後藤象二郎の政府入りと運動からの離脱を巡っても運動内部で意見の相違があり(その後、後藤は3月22日に黒田内閣逓信大臣として入閣)、4月28日から東京で開かれた全国の運動幹部の会合では、政社、非政社を巡って激論が繰り広げられ、決裂。5月10日、両陣営はそれぞれ別々に会合を開き、河野ら政社派は大同倶楽部を、大井ら非政社派は大同協和会を、それぞれ結成した[3]

活動

主な活動としては、1年後に迫った帝国議会の開設に向けて、総選挙の準備(府県会議員の調査と、立候補者の人選)、そして各地との連絡、遊説であった。一方で、同年8月から9月にかけて条約改正反対運動(外国人司法官任用問題)が沸き起こった際には運動の一翼を担い、大同協和会などの他派との連携も一時的に行われた。しかし、運動が終結するとこれらの団体とは敵対関係に戻り、10月17日に開かれた臨時大会においては、党務の拡張、協和会との対決の構えを示した[4]

組織

結成時に定められた党則では、常議員会を置き、各府県1,2名を選出していたが、上述の実務で会合の出席者は回を追うごとに減り、必然的に、事務主任者(のちに事務員)になった河野と大江卓が"事務主任者"(のちに"事務員")として党務を取り仕切った。

大同団結

上述の条約改正反対運動が沈静化した後、旧自由党の総裁であった板垣退助が、分裂した諸派の再結集と、自由党再興の考えを固め、各派に自身の出馬を通知した。河野ら大同倶楽部側は、板垣を担いでの自由党再興になった場合は、大井ら大同協和会が主導権を握るようになることから、12月に板垣が国元の土佐から大阪へ出た際に談判に及び、この段階では、板垣の構想は頓挫した(板垣は独自に愛国公党を結成)[5]

合同の動きが本格化したのは、翌年に入ってからである。5月14日、大同倶楽部、大同協和会に、愛国公党を交えた三派の会合が開かれる。これに九州連合同志会も加わることにより、9月15日、立憲自由党が結成される。大同倶楽部はこれに先立ち、8月17日に解散した[6]

解党直前、明治23年(1890年)7月1日に行われた第1回衆議院議員総選挙においては、大同倶楽部は55議席を獲得した。

大同倶楽部 (1905年–1910年)

日本政党
大同倶楽部
成立年月日 1905年12月3日[1]
前身政党 帝国党など[1]
解散年月日 1910年3月1日[1]
解散理由 戊申倶楽部との合同[7]
後継政党 中央倶楽部[1]
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大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、明治時代後期に存在した日本の政党(1905年12月23日 - 1910年3月2日)。

第1次桂内閣の崩壊後、同内閣を支持していた帝国党佐々友房を中心に甲辰倶楽部自由党などが合流して76人結成される。山縣有朋桂太郎長州藩閥と親しく、当初は立憲政友会及びその第1次西園寺内閣に対して支持していたが、後に対決姿勢を強めたために親政友会派の脱会を招いた。その後、反政友会勢力再結集を目指して戊申倶楽部と合同して中央倶楽部を結成した。

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h 宇野俊一. 日本大百科全書(ニッポニカ) - 大同倶楽部. コトバンク. 2019年4月4日閲覧。
  2. ^ 升味, p. 105.
  3. ^ 升味, pp. 108–111.
  4. ^ 升味, pp. 121–122.
  5. ^ 升味, pp. 130–135.
  6. ^ 升味, pp. 135–138.
  7. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンク. 2019年4月4日閲覧。

参考文献

関連項目


大同倶楽部 (1889年 - 1890年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 07:04 UTC 版)

「大同倶楽部」の記事における「大同倶楽部 (1889年 - 1890年)」の解説

大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、自由民権運動期誕生した日本の政党大同団結運動内紛の中で誕生したが、帝国議会創設に伴い立憲自由党合流した結党 帝国議会開設見越して繰り広げられた反政権藩閥運動自由民権運動)は、中核占めた自由党が、党内不満分子暴発政府の弾圧に耐えかねて明治17年1884年)に解散して一旦逼塞したが、明治22年1889年2月11日大日本帝国憲法発布合わせて大赦歴代政治犯釈放されたのをきっかけに、民権派勢力(旧自由党、および立憲改進党)の再結集動き活発になった(大同団結運動)。 この時、団結後の運動の形態として、まとまった政治団体志向する河野広中政社派と、ゆるやかな連絡組織望んだ大井憲太郎らの非政社派の対立表面化した。更に、大同団結運動主導者であった後藤象二郎政府入り運動からの離脱巡って運動内部意見の相違があり(その後後藤3月22日黒田内閣逓信大臣として入閣)、4月28日から東京開かれた全国運動幹部会合では、政社、非政社巡って激論繰り広げられ決裂5月10日、両陣営それぞれ別々に会合開き河野政社派は大同倶楽部を、大井ら非政社派は大同協和会を、それぞれ結成した活動 主な活動としては、1年後迫った帝国議会開設向けて総選挙準備府県会議員調査と、立候補者の人選)、そして各地との連絡遊説であった一方で同年8月から9月にかけて条約改正反対運動外国人司法官任用問題)が沸き起こった際には運動の一翼担い大同協和会などの他派との連携一時的に行われた。しかし、運動終結するとこれらの団体とは敵対関係戻り10月17日開かれた臨時大会においては党務拡張協和会との対決構え示した組織 結成時定められ党則では、常議員会を置き、各府県1,2名を選出していたが、上述実務会合出席者は回を追うごとに減り必然的に事務主任者(のちに事務員になった河野大江卓が"事務主任者"(のちに"事務員")として党務取り仕切った大同団結 上述条約改正反対運動沈静化した後、旧自由党総裁であった板垣退助が、分裂した諸派再結集と、自由党再興考え固め各派自身出馬通知した河野ら大同倶楽部側は、板垣担いで自由党再興になった場合は、大井大同協和会主導権を握るうになることから、12月板垣国元土佐から大阪出た際に談判に及び、この段階では、板垣構想頓挫した板垣独自に愛国公党結成)。 合同動き本格化したのは、翌年入ってからである。5月14日、大同倶楽部、大同協和会に、愛国公党交えた三派の会合開かれる。これに九州連合同志会も加わることにより、9月15日立憲自由党結成される。大同倶楽部はこれに先立ち8月17日解散した解党直前明治23年1890年7月1日行われた第1回衆議院議員総選挙においては、大同倶楽部は55議席獲得した

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