外交政策の展開
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1261年、バイバルスはアッバース朝最後のカリフ・ムスタアスィムの叔父アフマドがダマスカスに到着した報告を受け取り、彼をカイロに迎え入れてカリフ・ムスタンスィル2世として擁立した。アッバース家の象徴である礼服をムスタンスィル2世に着せられたバイバルスは、カリフを傍らに伴って華々しくカイロを行進した。そして、バイバルスはムスタンスィル2世からエジプト、シリア、アナトリアの統治を認める叙任状を受け取った。同年8月、バグダードにカリフの政権を復活させるためダマスカスに行き、ムスタンスィル2世に護衛を付けて送り出した。カリフ一行はユーフラテス川を渡った後、モンゴル軍に殺害された。 即位から3年の間、バイバルスは軍備の強化に力を入れ、陸海軍の再編、城砦の修築が実施された。バイバルスはモンゴルの侵攻に対抗するため、軍備の強化と並行して神聖ローマ帝国、東ローマ帝国との関係を強化した。ルーム・セルジューク朝のスルターン・カイカーウス2世は、自国の共同統治者であり政敵でもある弟のクルチ・アルスラーン4世を打倒するため、バイバルスに国土の半分の割譲と引き換えの援助を願い出た。エジプトの反乱、シリアに残存するアイユーブ王族、モンゴル軍に対処するため、バイバルスは中東の十字軍国家に対しては消極的な態度を取っていた。 イスラームの信者であるベルケが治めるモンゴル系国家のキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)との同盟は、バイバルスの外交政策で最も効果的なものだった。1261年/62年、200人のモンゴル人騎兵が家族を伴ってエジプトに亡命する事件が起きる。バイバルスは彼らを丁重に扱い、住居、官職、イクターを与えた。好意的な態度のため、翌年にも移住者がエジプトに到着し、バイバルスの治世に3,000人のモンゴル人がエジプト・シリアに移住した。亡命者たちからベルケの情報を聞き取ったバイバルスは、1262年末に彼の元に使節団を派遣する。バイバルスが派遣した使節団と行き違いにベルケから派遣された使節団がエジプトに到着し、イルハン国を建てたフレグに対する軍事同盟の締結が提案された。バイバルスは使節の来訪を喜び、贈物とベルケの改宗を祝福した書簡を携えた返礼の使節を派遣した。そして、カイロ、メッカ、メディナ、エルサレムの金曜礼拝で読まれるフトバには、バイバルスの名前のすぐ後にベルケの名前が入れられた。 1262年より2年以上にわたってフレグはベルケとの戦争に釘付けにされ(ベルケ・フレグ戦争(英語版))、バイバルスは対モンゴル戦の軍備を整えることができた。フレグはベルケとの戦争の間に、1262年/63年にキリキア・アルメニア王国の王子ヘトゥムをエジプトに派兵したが、マムルーク軍はヘトゥムの侵入を撃退した。ヘトゥムの侵入と同時期にフレグの元からマムルーク朝の将軍に内通を促す密使が派遣されたが、バイバルスは間諜の報告で密使の動きを把握し、密使を逮捕・処刑することができた。1263年にバイバルスはモンゴルとの内通を口実としてカラクのムギースを処刑し、彼の領地を併合する。
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