国民政府に参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 15:37 UTC 版)
1931年に張学良の勢力を代表して国民政府に参加し、12月28日に外交部長に任ぜられた。1932年2~8月国際連盟の派遣したリットン調査団に対し中華民国側代表として、日本の満州国建国への介入の違法性を訴えた。同年国民党中央政治会議外交委員に就任した。 1936年に駐仏大使に就任し、ついで1941年から第二次世界大戦の終戦の翌年の1946年駐英大使に就任した。その間、不平等条約の完全撤廃に力を尽くすとともに、サンフランシスコ会議では戦勝国である中華民国の代表を務め、国際連合の創設に協力した。また1945年には国民党六全大会で中央執行委員に選出されている。1946年に駐米大使に転じ、国共内戦に中国国民党政府が敗れ台湾島に遷都した際には、アメリカからの支援を受けるべく奔走した。 1956年台湾総統府資政、その後1957年~1967年国際司法裁判所判事に任命される。1967年に引退してニューヨークに移住、コロンビア大学で回想録を口述し、死の直前まで健康であったが、1985年11月入浴中に倒れ、死去した。
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