加害者・死刑囚T
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 17:00 UTC 版)
「館山市一家4人放火殺人事件」の記事における「加害者・死刑囚T」の解説
1963年(昭和38年)10月3日生まれ。2019年(令和元年)10月1日時点で東京拘置所に死刑囚として収監されている。 事件当時は千葉県館山市船形1305番地4号在住・40歳の土木作業員で、母親・兄と3人で暮らしていた。近隣住民によれば「普段はおとなしいが酒癖が悪い」性格で、酒に酔うとトラブルが絶えず、事件4,5年ほど前からはそれまで参加していた青年会に出てこなくなっていたが、そのような集まりに参加しなくなってから船形地区で不審火が相次ぐようになっていた。また中学時代の同級生によれば特に目立つ存在ではなく、5年おきに開かれていた同窓会も常に欠席していたほか、消防団には所属していなかったが、一家4人焼死火災以前の1,2年に発生した不審火の際には現場に必ずといってよいほど姿を現していた。 館山市内で出生して地元の中学校を卒業後、1990年(平成2年)もしくは1991年(平成3年)ごろから館山市内でダンプカーを購入し個人で運搬業を営んでいたが、収入の多くを飲み代・パチンコなどに充てていたため個人で納付すべき税金などを滞納するようになった。また1993年(平成5年)に父親が癌で死去したが、その死に目に会えなかったことから大きなショックを受けた。 その後、仕事が減少したことでダンプカーを購入した際の借入金を返済することも困難となったため、1995年(平成7年)2月ごろには千葉県内の解体会社へ就職し、ダンプカーの運転・家屋解体などの作業に従事したが、収入・負債の現状を省みず飲酒・パチンコなどを控えなかったため税金などを滞納し続ける状態が続き、消費者金融から借金して税金などの支払いに充てていたが、次第に自己の経済状態などを思い悩むようになった。また1996年(平成8年)4月ごろには解体作業中に足を負傷したが、その際に会社側が労災申請しなかったことに加え、その後同社に専務として入社した社長の娘婿による仕事の進め方などに不満を抱いたが、内向的な性格も影響して社長・専務らに意見・文句などを言うことができず、勤務先への不満・鬱憤を強めつつも働き続けていた。その中で不満・鬱憤を紛らわすため飲酒・パチンコなどをしてもいずれも一時的なものにとどまっていたが、1997年(平成9年)ごろに駐車場へ停めていた自分の自動車のドアガラスを割られる被害に遭ったため、数日後に飲酒して帰宅する途中にその腹いせ・日ごろの鬱憤から他人の車両のタイヤをカッターナイフで突き刺したところ気分が晴れたため、カッターナイフで自動車のタイヤをパンクさせたり、ワイパーを壊すなどのいたずらをするようになり、以降も同様の憂さ晴らしをするようになった。さらにその数か月後には飲酒して帰宅する途中、カッターナイフがなかったためライターでごみ置き場のごみに点火したところ「誰かに見つかるのではないか?」と緊張感を覚えるとともに鬱憤を晴らすことができたため、以来も同様の憂さ晴らしをするようになった。 2000年(平成12年)3月には道路交通法違反(酒気帯び運転)の罪により罰金5万円の刑に処されており、逮捕時点で前科一犯だった。
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