元末四大家
元末四大家
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黄公望(1269 - 1354?年)は江蘇常熟の人。旧姓は陸で、後に黄家の養子となる。字は子久で、大癡(だいち、「大馬鹿者」の意)、一峯道人などと号した。若い時には仕官したこともあったが、ある事件に連座して投獄された後、仕官をあきらめて各地を放浪し、売卜(占い)で生計を立てたという。本格的に絵を始めたのは50歳を過ぎてからのこととされる。画論『写山水訣』がある。絵の代表作には『富春山居図』(台北故宮博物院)がある。同図は長さ6メートルを超える画巻で、公望が晩年に隠棲した浙江富春郷の山水を描いたものであり、至正7年(1347年)から3年間をかけて完成した。『富春山居図』を所持していた清時代の収集家・呉洪裕は、自らの死の直前に図を火にくべて燃やそうとしたが、焼失する前に絵は救い出された。しかし、その際に巻頭の部分が損傷して切断された。現在、浙江省博物館に所蔵される『剰山図』がその巻首部分であるという。 呉鎮(1280 - 1354年)は浙江嘉興魏塘鎮の人。字は仲圭で、梅花道人と号した。元末四大家のうち他の3者は互いに交友があったが、呉鎮のみは他の文人と交わらず、孤高清貧の生涯を送った。元末四大家の他の3者が水墨画・着色画の双方を描いたのに対し、呉鎮はもっぱら水墨の山水や墨竹を描いた。絵は江南山水画の董巨(董源と巨然)に倣う。代表作に至正元年(1341年)の『洞庭漁隠図』(台北故宮博物院)などがある。 倪瓚(1301 - 1374年)は無錫の代々の富豪の家に生まれた。初名は珽(てい)で、後に瓚に改めた。字は元鎮で、雲林、荊蛮民、幻霞生などと号した。倪瓚は早くに父を亡くし、長兄によって養育された。長兄の没後は28歳で家督を継いだ。家柄から、倪瓚の家には多数の書物や書画があり、文人との交友も多かった。しかし、50歳を過ぎて、家財を売り払い、各地を転々と放浪する生活を20年近くも続けた。典型的な画風は「蕭散体」(しょうさんたい)あるいは「一河両岸」と称されるもので、モチーフを絞り、余白の多い画面を特色とする。近景に土手と数本の樹木や亭を描き、遠景に小さく山を配し、その間の中景を広い水面とする構図が典型的で、前述の「一河両岸」はこの構図に由来する。代表作に至正15年(1355年)の『漁荘秋霽図』(上海博物館)、洪武5年(1372年)の『容膝斎図』(台北故宮博物院)などがある。 王蒙(1301または1308年 - 1385年)は湖州(浙江呉興)の人。字は叔明で、香光居士、黄鶴山樵などと号した。元末四大家の中では唯一官途につき、理問という下級官吏であった。画風は倪瓚とは反対に、画面の下から上までモチーフを隙間なく積み上げ、細かく描き込むのが特色である。元の滅亡後は明に仕えたが、胡惟庸の獄に連座し、獄死した。代表作に至正26年(1366年)の『青卞隠居図』(せいべんいんきょず、上海博物館)などがある。
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