両毛地区
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1968年の両毛線電化に際し、横須賀線で最後まで運用されていた42両および、同じく横須賀線で運用されていたサロ85形を改造したクハ77形6両を4両編成に組替えて新前橋電車区(現・高崎車両センター)に配置した。 1970年の吾妻線長野原 - 大前間開業に伴い同線の一部運用も受持つことになった。吾妻線では4両編成で運行され、両毛線では4両編成に40系の2両編成を組合わせた4両、6両、10両編成で運行されており、1971年にモハ70形1両が仙石線に転出して41両の配置となったほかは動きはなかった。
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両毛地区
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「モータリゼーション#両毛デルタ地帯」も参照 古代、毛野国の中心にあった地域で、現在の栃木市付近には下野国の国府が置かれた(国造は下毛野君)。また、栃木市の東隣に位置する下野市には下野国分寺跡、下野薬師寺跡といった史跡がある。 平安時代以降、関東に起こった清和源氏義家流新田氏・足利氏、同義光流佐竹氏、藤原秀郷流藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・皆川氏らはこの地域の領有権を巡って抗争した。下野国司で宇都宮二荒山神社座主と日光山検校職を兼務した藤原北家道兼流で下毛野氏ないし中原氏の流れを汲む宇都宮氏は終始中央政権体制として下野国内の政争の鎮静にあたった。 鎌倉時代には鎌倉幕府の有力御家人となった小山氏が治め、南北朝時代には足利尊氏の意向を受けた国司の宇都宮氏が掌握したが、室町幕府が鎌倉府を設置すると関東管領・上杉氏の統治下に入った。鎌倉公方の足利成氏が台頭し古河に移って古河公方を称すると領主たちはこれに従属した。戦国時代に入って後北条氏が台頭すると、この地域は中央政府方(上杉氏、佐竹氏、宇都宮氏等)と後北条方(足利氏、小山氏、結城氏等)が拮抗する主戦場となり、最終的に後北条氏が勢力下に置いた。豊臣秀吉が後北条氏を破ると結城氏が代わって治めた。その後結城氏は領地換えになり、江戸時代は時の中央勢力から派遣された者が代わる代わる統治した。 栃木県と群馬県に跨がる地域(足利、佐野、桐生、太田、館林など)は両毛地域と呼ばれ、古くは東山道、江戸時代には日光例幣使街道、現在は国道50号・国道122号・国道293号・両毛線・東武伊勢崎線等が通っている。現在、国道50号沿線はモータリゼーションが発達して商工業ベルト地帯化しており『R50ベルト地帯』や『両毛デルタ地帯』などと呼ばれることがある。水戸線や両毛線はR50ベルト地帯を結ぶ生活路線として機能しているほか、2008年3月8日には北関東自動車道の太田藪塚ICと太田桐生ICが開通した。近隣の佐野市の佐野プレミアムアウトレットや太田市(人口約21.8万人)のイオンモール太田など郊外型商業施設には、近隣住民が県境を越えて訪れ、これらの道路には周辺各地域のナンバー車が往来する。 この両毛地区の東に接する小山市、古河市などの宇都宮線沿線地域は近年ベッドタウン化が見られ、東京圏に属する住民も少なくない。関東地方のほぼ中央ともいうべき地域で、小山市は国道50号、古河市は国道125号、国道354号の沿線であり、共に国道4号、JR宇都宮線が市内を縦断している。古河市は茨城県であるが、南北軸を見ると日光街道の沿線である。小山市の南隣・古河市の北隣の野木町は東京都心への通勤率が10%を超えていて、東京都市圏(都市雇用圏)の北端部に位置しており、南関東と同一地域と見ることもできる。 また両毛地区の南に接する羽生市、加須市などの旧北埼玉郡・熊谷ナンバー管内地区は、歴史的に日光街道の北西部に位置する地区で両毛地区との繋がりが深く、一方で『埼玉』の名称の由来となった地域でもある。通勤・通学では東京圏に属する住民も多いが、タクシーの営業区域が加須市の旧大利根町・旧北川辺町を除いて旧態から県北交通圏であり、東武伊勢崎線が久喜で、日光線が南栗橋で系統分離され、群馬県あるいは栃木県両毛地区と同一の運転が行われるようになったことから、日常の生活圏としては両毛地区の施策も執られている。加須市の旧北川辺町は、市外局番が古河0280で単位料金区域は古河MAであり、新古河駅は古河市ではなく加須市にあるなど、対岸の古河市との関わりも深い。
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