レオ1世の時代
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457年1月27日にマルキアヌスが死亡すると、コンスタンティノポリス元老院はアスパルを皇帝として指名したが、アスパルは辞退し、代わりに彼は自分の部隊からベス族の兵士の一人(レオ1世)を選んで即位させた。レオ1世は皇帝就任に際してローマ皇帝として初めてコンスタンティノープル総主教によって戴冠されたが、そこには先に擁立したマルキアヌスが正当な皇帝として承認されなかった反省からレオの即位を神の意志による選択として正当化しようとするアスパルの思惑があったものと考えられる。これ以後、東ローマ帝国において皇帝を立てるには教会による同意が必要不可欠なものとなった。 当初はレオ1世もマルキアヌスと同様にアスパルの傀儡にすぎなかったが、460年代になるとレオ1世は、大勢のイサウリア人(ドイツ語版、ハンガリー語版、オランダ語版)を雇い入れてエクスクビトル(英語版)とよばれる彼直属の親衛隊を構成し、アスパルの傀儡であることから脱出しようと試み始めた。466年、レオ1世に雇われたイサウリア族長タラシコデッサ(後の皇帝ゼノン)がアスパルの長男アルダブリウスをサーサーン朝との内通の嫌疑で告発すると、レオ1世はアスパルとアルダブリウスの無実を主張する声を退け、アルダブリウスをオリエンス道のマギステル・ミリトゥムから罷免した。タラシコデッサはレオ1世の娘アエリア・アリアドネ(英語版)と結婚し、ギリシア語でゼノンと名乗ることが許された。 しかし468年、レオ1世はアスパルの反対を押し切って義弟バシリスクスを指揮官とするヴァンダル族討伐の大規模な艦隊をアフリカへ派遣するも、船団の半数を失う大敗を喫してしまう。さらにはゼノンも469年にトラキアで反乱に遭い、命からがら逃亡する醜態をさらすことになった。こうしたレオ1世とゼノンの失態により、再びアスパルが名声を取り戻すこととなった。レオ1世はアスパルの次男ユリウス・パトリキウス(英語版)を副帝に任命し、娘の一人レオンティア(英語版)を彼に嫁がせることを宣言した。しかしパトリキウスがローマ帝国で禁じられていたアリウス派を信仰していたために、コンスタンティノープルの聖職者達が猛烈に反発し、ついには暴動へと発展した。この暴動を収めるためにレオ1世は、レオンティアとの婚姻までにはパトリキウスをカルケドン派へ改宗させることを約束しなければならなくなった。 その後もゼノンとアスパルは衝突を繰り返した。アスパルは当時の東ローマ帝国で最大の勢力であったゴート族と強い関わりがあったし、一方のゼノンは戦闘的なイサウリア族を率いていた。最終的にレオ1世はアスパルかゼノンかを選択しなければならなくなった。そして471年、アスパルとアルダブリウスは扇動された暴徒達によってカルケドンの聖エウフェミア教会へ追い詰められ、ゼノンの手の者によって殺害された。アスパルの次男パトリキウスと三男エルマネリック(イタリア語版)は殺害を免れたが、パトリキウスは副帝から退位させられレオンティアとも離婚させられた。 アスパルが殺害されると彼の親族であったテオドリック・ストラボがゴート族を率いてトラキアで反乱を起こし、反乱はレオ1世が和睦に応じる473年まで続いた。また、パトリキウスとの婚姻を無効とされたレオンティアは、後にアンテミウスの子マルキアヌス(英語版)と結婚し、ゼノンが皇帝となっていた479年に夫マルキアヌスを皇帝としてゼノンに反乱を起こした。 アスパルの死はテオドシウス1世の時代から続いたゴート族による東ローマ帝国支配の終わりの始まりであり、以後はイサウリア族が東ローマ帝国の支配者となった。イサウリア族による東ローマ帝国の支配は、アナスタシウス1世がイサウリア族による反抗を打ち破って彼らをトラキアへ強制移住させる498年ごろまで続いた。
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