ヨハネ23世とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 宗教家 > 宗教家 > ローマ教皇 > ヨハネ23世の意味・解説 

ヨハネ23世 (ローマ教皇)

(ヨハネ23世 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 01:52 UTC 版)

聖人 ヨハネ23世
第261代 ローマ教皇
教皇就任 1958年10月28日
教皇離任 1963年6月3日
先代 ピウス12世
次代 パウロ6世
聖人
列聖 2014年4月27日
列聖決定者 フランシスコ
個人情報
出生 (1881-11-25) 1881年11月25日
イタリア王国ソット・イル・モンテ
死去 (1963-06-03) 1963年6月3日(81歳没)
バチカン
埋葬地 サン・ピエトロ大聖堂
署名
紋章
その他のヨハネ
テンプレートを表示

ヨハネ23世ラテン語: Ioannes XXIII1881年11月25日 - 1963年6月3日)は、ローマ教皇(在位:1958年10月28日 - 1963年6月3日)、カトリック教会司祭。本名は、アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリAngelo Giuseppe Roncalli)。第2バチカン公会議の実施を指示して世界を驚かせ、実際に開会までこぎつけたが、会期途中で世を去った。エキュメニズム(教会一致)の精神に従って、他教会や他宗教との対話に積極的であった。カトリック教会の聖人である。

ヨハネス23世とも表記される。15世紀の対立教皇であるヨハネス23世は同名の別人である。

生涯

ヨハネ23世の紋章
腐敗していないヨハネ23世の遺体

アンジェロ・ロンカッリは1881年イタリア王国ベルガモ郊外のソット・イル・モンテ小作農の家に生まれた。これは貴族の家系に生まれた前任者のピウス12世とは対照的であった。1905年に司祭に叙階されたロンカッリは、1915年従軍司祭衛生兵として第一次世界大戦に従軍した。1925年ブルガリアの教皇使節任命を皮切りに、トルコギリシャと非ローマ・カトリック国での職務を歴任し、1944年にはパリに派遣された。フランスでは民衆の親独政権協力司祭への追及という難しい状況にあって、誠意をもって対処した。1953年枢機卿に任命されると、ロンカッリはヴェネツィア総大司教となった。

1958年、教皇ピウス12世の死去に伴って行われたコンクラーヴェにおいて、有力な候補者と思われていなかった76歳のロンカッリが教皇に選ばれると、世界が驚愕した。76歳での選出は選出時から過去200年の中では最高齢であり、ロンカッリ自身も驚いたという。彼はヨハネ23世を名乗った。ヨハネ23世は選出時すでに高齢であったため、短期間の「つなぎの教皇」に過ぎないと見る向きもあり、実際にも彼の在位期間は5年に満たない短いものであったが、彼はその飾らない態度と親しみやすさ、ユーモアのセンスによってすぐに世界を魅了した。これも厳格な表情を崩さなかったピウス12世とは対照的であった。

彼は教皇としてエキュメニズム(教会一致)への情熱を示した。1500年代以来、初めてイングランド国教会大主教をバチカンに迎え、正教会へも公式メッセージを送った。また、東西冷戦の解決を模索し、キューバ危機においても米ソ双方の仲介に尽力した。さらに彼は長きにわたってカトリック教会の近代化を意図し、誰もが予期しなかった公会議の開催を指示した。彼は準備委員会を発足させ、ついに1962年10月、第2バチカン公会議の開催にこぎつけたが、この時彼はすでに胃癌に侵されており、1963年6月3日午後7時49分(日本時間、4日午前3時49分)、会議の終了を待たずに死去した。

2000年9月3日、遺体が防腐処理なしに腐敗を免れていたのが奇跡と認定され、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。

2013年7月5日、バチカンはヨハネ・パウロ2世と共にヨハネ23世を列聖することを発表した[1]。ヨハネ23世は奇跡の認定を特別に免除され、翌2014年4月27日に教皇フランシスコによって列聖式が執り行われた[2]

自身の日記によれば、ヨハネ23世はキリストや聖母マリアの幻視を受けていた[3]

脚注

  1. ^ ヨハネ・パウロ2世、「聖人」に=ヨハネ23世も-バチカン発表時事通信2013年7月6日閲覧
  2. ^ ヨハネ23世とヨハネ・パウロ2世、聖人に、バチカンで列聖式(バチカン放送局日本語版)
  3. ^ ヨハネ二十三世 魂の日記 ドン・ボスコ社

関連書籍

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ヨハネ23世に関するカテゴリがあります。


ヨハネ23世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 10:46 UTC 版)

第2バチカン公会議」の記事における「ヨハネ23世」の解説

1959年1月25日教皇ヨハネ23世はサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂附属ベネディクト派修道院をふらりと訪れ17人の枢機卿の前で突然、公会議召集することを告げた。この教皇自身下した決断長い熟考結果ではなく予期しないところにふと訪れた春の木々芽生えのように生まれた」。 この突然の公会議開催発表大き混乱引き起こした多く枢機卿らは、司教たちがマスメディア圧力を受ける危険を指摘して公会議招集止めよう促した。その理由は、ヨハネ23世は、以前ブルガリア教皇使節在位1925年-1934年)を務めた当時から「東方帰一教会」が正教徒らにしている帰一宣教活動反対しており、新しエキュメニズム考えていたからである。 神学者の間には、カール・ラーナーイヴ・コンガールどのように近代社会人類獲得した経験知伝統的なカトリック信仰調和させる」ことを目指し一団と、ヨーゼフ・ラッツィンガー(後の教皇ベネディクト16世)やアンリ・ドゥ・リュバックのように「古代教会信仰にこそ現代教会活力源泉見出されるはずだ」とする一団という2つ大きなグループ生まれていた。 また、第1バチカン公会議で本来話し合われるはずであった教会論議論(これらは普仏戦争勃発によって中断余儀なくされた)を行うことで教会アイデンティティー再確認することの大切さも十分認識されていた。このような流れの中で、つなぎの老教皇みなされていたヨハネ23世が公会議召集発表したことは、カトリック教会全世界にとって驚き同時に大きな期待持って迎えられた。

※この「ヨハネ23世」の解説は、「第2バチカン公会議」の解説の一部です。
「ヨハネ23世」を含む「第2バチカン公会議」の記事については、「第2バチカン公会議」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ヨハネ23世」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「ヨハネ23世」の関連用語











ヨハネ23世のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヨハネ23世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヨハネ23世 (ローマ教皇) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの第2バチカン公会議 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS