なぜいま都市は「デザイン」を必要としているのか:森美術館館長・南條史生

2015年10月に都市の未来をテーマに開催された「Innovative City Forum」。その主宰者のひとりである森美術館館長の南條史生は、「デザインを再定義する」というセッションを企画した。その狙いについて彼は、いま建築家や科学者やテクノロジストたちが、デザインを語るべき必然性があるからだと語る。(12月1日発売、雑誌『WIRED』VOL.20 都市特集より転載)
なぜいま都市は「デザイン」を必要としているのか:森美術館館長・南條史生
PHOTOGRAPH BY KAORI NISHIDA

<a href="/special/2016/redesigning-tokyo/"><strong> Redesigning Tokyo</br>特設サイト:2016年からの都市のつくりかた</strong></a>

デザインとはいったいなんでしょう? 試みにWikipediaで「デザイン」を引いてみると、その語源は「計画を記号に表す」という意味のラテン語「designare」であり、「ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それをさまざまな媒体に応じて表現すること」だと記されています。

かつて「デザインする」といえば、少なくとも日本では「もののかたちをつくる」ことと同義でした。しかしデザインが本来、「問題を解決するための一連のプロセスの総体」なのだとすれば、問題や課題が増えれば増えるほどデザインの概念が広がりをみせるのは道理であり、ビジネスやライフスタイルは言うに及ばず、コミュニティ、プログラミング、サイエンスといった分野にもあまねくデザインが浸透しはじめている今日の状況は、むしろ必然であると捉えるべきでしょう。

課題こそがデザインをドライヴさせる

だとすると、デザインについて考えるにあたって最も重要なのは、「課題=対象」を顕在化することだといえるかもしれません。課題自体を発見し、それを定義できなければ、デザインをドライヴさせる因子を決定すること自体が不可能だからです。言い換えると、課題の捉え方次第で、デザインの解そのものが変化することになるはずです。

「デザインを再定義すること」とは、実は「課題を再定義すること」なのだということが、ここで見えてきます。そして、そのような時代に求められるのが、課題を洞察するヴィジョナリーたちの存在です。その最たる人物といえるのが、MITメディアラボ所長の伊藤穰一でしょう。Joiは、ある課題を発見し、その領域を定めるにあたり、「なにが根底にあるのか」「なにが影響しているのか」を見抜こうとします。例えばビッグデータを引き合いに出し、このように語ります。

「ビッグデータには一見恣意性がないように思えるが、実はバイアスがかかっていることがある。例えばニューヨークの犯罪データを活用しようと思っても、不審尋問の件数自体、実際の人種比率と比較して黒人の数があまりにも多い(つまりバイアスが存在している)ため、データをそのまま信用することはできない。また自律走行車の場合、例えばイギリスの自律走行車をアメリカで走らせることはできないはずだ。慣習が違い、道路の構成も違うからだ。その差異を言語のように翻訳しなければ、国をまたいで自律走行車に乗ることは難しいだろう。

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このように、実はビッグデータ自体が、人間が生物としてもっている普遍的な行動パターンだけではなく、その上のレイヤーにある文化的影響を受けており、犯罪データにせよ自律走行車にせよ、システムをデザインするにあたってはその点を考慮に入れなければならない」

この発言が意味するところは、従来コントロール不能だと思われていた「領域」、あるいは新しいテクノロジーによって見えてきた「事実」や「データ」と向き合い、その真の意味を見抜く目をもつことの重要性です。これからの時代におけるデザインの技法とは、まさにそうした目を身につけることからはじまるのではないかと思います。

アートはデザインといかに向き合うのか

では、わたしが属するアートの世界は、この先デザインとどう向き合っていくべきなのでしょうか。それを説明するにあたり、20世紀初頭、ニューヨークのメトロポリタン美術館が発行する広報誌にて紹介された、「Museum as a laboratory」という概念を挙げてみたいと思います。

美術館にはさまざまな文化的、社会的機能がありますが、そのなかでもわたしは、美術館が100年近く前からもつ「ラボラトリーとしての機能」が、この先ますます重要性を帯びると考えています。美術館というのは、コントラヴァーシャルな作品、つまりはそのままではパブリックな場所に出せないような表現や計画や思考を、提示することができる場です。その意味において、課題に対する「問いの第一歩」をいち早く表現するための、理想的な空間とコンテクストをもっているといえるでしょう。まだ製品化して世に問うことができないプロトタイプを提示する、ひとつのショウケースとしての役割が、この先の美術館には期待されているのです。もちろんルールを逸脱すると、たとえ美術館であっても閉鎖に追い込まれてしまいますが……(笑)。

デザインは誰がために

かつてはゴッホもルノワールも、「こんなものはアートじゃない」といわれました。なにがアートなのかということは、時代やコンテクストによっても変化することを、いまやわたしたちは知っています。そしておそらく、「なにがデザインなのか」という問いもまた、時代やコンテクストによって変化をみせることでしょう。しかし時代やコンテクストが変わっても、決して欠落することのないある視点が存在すると、わたし自身は考えています。それは、「誰のためにデザインするのか」という視点です。

この「誰」を、「都市に暮らすわたしたち」と定義するならば、2015年のいま、建築家や科学者やテクノロジストたちがデザインを語ることには、大いなる必然性があるということができると思います。アートにしてもデザインにしても、そのコアにあるのはクリエイティヴィティです。もしいま、都市がアートやデザインを必要としているのだとすれば、それは、「問い」自体を鮮明に浮き立たせる、クリエイティヴィティにほかなりません。

FUMIO NANJO︱南條史生
1949年東京都生まれ。森美術館館長。72年慶應義塾大学経済学部、76年文学部哲学科美学美術史学専攻卒業。国際交流基金、森美術館副館長等を経て2006年11月より現職。97年ヴェネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー、98年台北ビエンナーレ コミッショナーにはじまり、ターナー賞(英国)審査委員、06年および08年シンガポールビエンナーレ アーティスティック・ディレクター等を歴任。「Innovative City Forum 2015」、3日目のアート&クリエイティヴセッションでは、「デザインを再定義する」というお題を設定し、国内外からスピーカーを招へいした。


『WIRED』VOL.20は、「人工知能」と「都市」の2大特集・特別保存版

第1特集「人工知能はどんな未来を夢見るか」では、『WIRED』US版創刊編集長のケヴィン・ケリーによる論考をはじめ、ベン・ゲーツェル、PEZY Computing・齊藤元章、全脳アーキテクチャ取材記事やAIコミック「シンギュラリティ・ロック」を掲載。第2特集「未来都市TOKYOのゆくえ」では、テクノロジーとデザインが変えゆくTOKYOの未来の姿を考察。建築家ビャルケ・インゲルスのや、「デスラボ」カーラ・マリア=ロススタインの死の都市TOKYO彷徨記など盛りだくさんの内容。


PHOTOGRAPH BY KAORI NISHIDA

TEXT BY TOMONARI COTANI