文鳥 |
・・・その日が訪れました。
台風15号が最悪の日本縦断をした翌日、我が家に突然やってきたのは・・・
この子たちでした!!↓↓
じつは、この文鳥たちは、長女の文鳥であって、私のではありません。長女の部屋に住んでいます。
なので、私がブログにUPする権利はない気がするけど、サノスケと一緒のところなら、かろうじてサノスケの所有権を主張できる私の立場でも許されるであろう。
↑ムリヤリ。
お互いガン見しあっています。でも、まだひなっこなので、サノスケはまったく感心なしの様子です。まっ白な文鳥なら反応したかもしれませんが。
7年前、しろが来た頃と同じ、およそ一ヶ月の中ひな白文鳥です。
この目つき。なつかしいなぁ。しろがまた戻ってきてくれたみたい。でも、この子はしろがひなだったころより元気で、やんちゃです。男の子ではないかと推測。名前はJiJi(ジジ)。
初めて見るシナモン文鳥のひな。ジジより一週間あとの生まれだそうです。女の子と推測。おっとりマイペースでおとなしいと思っていたら、いまではジジを突きかえすこともあり。差し餌もいちばんたくさん食べて、からだがどんどんおおきくなっています。名前はPuPu(ププ)。
「うちにはジジイもプー太郎もいるから、なんだかそっちみたいで呼びにくいなぁ」
「だって、これ以外の名前なんて、考えられないんだもん」
もちろん命名権は長女にあるので、私は一切関与がゆるされません。
長女はひとりでいろいろ勉強して、差し餌をつづけています。慣れないから「どうしようどうしよう」と言いながらも、けっして無理強いせず、時間をかけて、口を開けるのを待ちます。そうか、こうすればよかったのか!(←私が言ってどーする)ひなは慣れてくるとしっかり口を開けてたくさんアワタマを食べ、日一日としっかり成長しています。初めてにしてはたいしたものだと思いました。(←ダメ世話人であることを思い知らされて落ち込む)私は7年前のことなどキレイに忘れてしまっているので、何を聞かれてもわかりません(汗)けっきょく文鳥団地のジャクボーさんのサイトを読ませていただくことになり、未熟な世話人が記録などと言ってブログを書いても何の役にも立たなかった事が判明しただけでした。
ひなたちと一緒に暮らすことはできないので、やはり、サノスケの孤独はまだつづきます・・・。
あれっ・・・どこが孤独だ??!
サノスケは私が買った文鳥なのですが、今はもうすっかり長女にこのとおり。この家にはもう、私の文鳥はいないも同然??
うう・・・悲しい・・・。
台風15号が最悪の日本縦断をした翌日、我が家に突然やってきたのは・・・
この子たちでした!!↓↓
じつは、この文鳥たちは、長女の文鳥であって、私のではありません。長女の部屋に住んでいます。
なので、私がブログにUPする権利はない気がするけど、サノスケと一緒のところなら、かろうじてサノスケの所有権を主張できる私の立場でも許されるであろう。
↑ムリヤリ。
お互いガン見しあっています。でも、まだひなっこなので、サノスケはまったく感心なしの様子です。まっ白な文鳥なら反応したかもしれませんが。
7年前、しろが来た頃と同じ、およそ一ヶ月の中ひな白文鳥です。
この目つき。なつかしいなぁ。しろがまた戻ってきてくれたみたい。でも、この子はしろがひなだったころより元気で、やんちゃです。男の子ではないかと推測。名前はJiJi(ジジ)。
初めて見るシナモン文鳥のひな。ジジより一週間あとの生まれだそうです。女の子と推測。おっとりマイペースでおとなしいと思っていたら、いまではジジを突きかえすこともあり。差し餌もいちばんたくさん食べて、からだがどんどんおおきくなっています。名前はPuPu(ププ)。
「うちにはジジイもプー太郎もいるから、なんだかそっちみたいで呼びにくいなぁ」
「だって、これ以外の名前なんて、考えられないんだもん」
もちろん命名権は長女にあるので、私は一切関与がゆるされません。
長女はひとりでいろいろ勉強して、差し餌をつづけています。慣れないから「どうしようどうしよう」と言いながらも、けっして無理強いせず、時間をかけて、口を開けるのを待ちます。そうか、こうすればよかったのか!(←私が言ってどーする)ひなは慣れてくるとしっかり口を開けてたくさんアワタマを食べ、日一日としっかり成長しています。初めてにしてはたいしたものだと思いました。(←ダメ世話人であることを思い知らされて落ち込む)私は7年前のことなどキレイに忘れてしまっているので、何を聞かれてもわかりません(汗)けっきょく文鳥団地のジャクボーさんのサイトを読ませていただくことになり、未熟な世話人が記録などと言ってブログを書いても何の役にも立たなかった事が判明しただけでした。
ひなたちと一緒に暮らすことはできないので、やはり、サノスケの孤独はまだつづきます・・・。
あれっ・・・どこが孤独だ??!
サノスケは私が買った文鳥なのですが、今はもうすっかり長女にこのとおり。この家にはもう、私の文鳥はいないも同然??
うう・・・悲しい・・・。
文鳥 |
外ではしろの姿を探してばかりいるサノスケですが、
かごのなかでは・・・左半分の場所でしか暮らしていません。
真ん中には来ても・・・
それ以上右へは行きません。何故なんでしょう?
右についていたえさ入れや豆苗にはまったく来ないので、外してしまいました。
・・・もしかして・・・まだいるの?
誰のこと?
かごのなかでは・・・左半分の場所でしか暮らしていません。
真ん中には来ても・・・
それ以上右へは行きません。何故なんでしょう?
右についていたえさ入れや豆苗にはまったく来ないので、外してしまいました。
・・・もしかして・・・まだいるの?
誰のこと?
文鳥 |
サノスケにしてみたら、突然しろがかごのなかからも、かごの外からもいなくなってしまったことになります。
文鳥に「死」はわかりません。ついでにいうと、♂♀の区別もつかないのかもしれません。ゴマ吉を喪ったときのしろと、今のサノスケの様子がよく似ているのです。だから、♂♀のペアでなかったとしても、喪失感はかわらないのではないかと思ったのです。サノスケとしろはしじゅう一緒で、とても仲が良かったですから・・・・。
ゴマ吉に先立たれてしまったしろもそうでしたが、サノスケも一日中しろを呼んで鳴き続けていました。そのこえを聞くと、いやがおうでもいなくなったしろを思い出させるので、こちらもなおさら辛くなります。
2.3日は水浴びもせず、かごのなかを飛び回って、落ち着きがありません。大好きな豆苗もあまり食べていません。
さらに辛いのは、サノスケが手乗りの文鳥ではないこと!長女がずっと面倒を見てくれていますが、しろがいた頃のように、すぐに手に載ってはこないそうで、長い時間がかかるようになったそうです。長女は、「てのひらにアワタマを置いて誘っている」と言っていました。
そして・・・世話人のところへはもちろんまったく来ません(泣)
しろはべったりで辟易したくらいなのに・・・。サノスケが荒鳥なのが悲しい・・・。
放鳥しても、きょろきょろと、しろの姿ばかりを探します。
そうだ、一年前、ここへ来たばかりの頃みたいに、カナリーシードと外置きお風呂で誘ってみよう。!!
あれっ?・・・すぐ入りました。
でも、やはり、お風呂に入ってもしろを探して動きが止まります・・・
・・が、終わるとやはり長女のほうに飛んでいってしまいます・・・(泣)
文鳥は長い時間を共有することが大切だと、思い知りました。でもね、毎日のように仕事して、あんたの食い扶持を稼いでるんだよ・・・(泣)
毎日働いて家にいる時間がなく、子供が懐かない・・・と嘆いている、お父さんみたいな心境です~(泣)
しかし、その後、サノスケの孤独は突然破られました。つづく・・・。
文鳥に「死」はわかりません。ついでにいうと、♂♀の区別もつかないのかもしれません。ゴマ吉を喪ったときのしろと、今のサノスケの様子がよく似ているのです。だから、♂♀のペアでなかったとしても、喪失感はかわらないのではないかと思ったのです。サノスケとしろはしじゅう一緒で、とても仲が良かったですから・・・・。
ゴマ吉に先立たれてしまったしろもそうでしたが、サノスケも一日中しろを呼んで鳴き続けていました。そのこえを聞くと、いやがおうでもいなくなったしろを思い出させるので、こちらもなおさら辛くなります。
2.3日は水浴びもせず、かごのなかを飛び回って、落ち着きがありません。大好きな豆苗もあまり食べていません。
さらに辛いのは、サノスケが手乗りの文鳥ではないこと!長女がずっと面倒を見てくれていますが、しろがいた頃のように、すぐに手に載ってはこないそうで、長い時間がかかるようになったそうです。長女は、「てのひらにアワタマを置いて誘っている」と言っていました。
そして・・・世話人のところへはもちろんまったく来ません(泣)
しろはべったりで辟易したくらいなのに・・・。サノスケが荒鳥なのが悲しい・・・。
放鳥しても、きょろきょろと、しろの姿ばかりを探します。
そうだ、一年前、ここへ来たばかりの頃みたいに、カナリーシードと外置きお風呂で誘ってみよう。!!
あれっ?・・・すぐ入りました。
でも、やはり、お風呂に入ってもしろを探して動きが止まります・・・
・・が、終わるとやはり長女のほうに飛んでいってしまいます・・・(泣)
文鳥は長い時間を共有することが大切だと、思い知りました。でもね、毎日のように仕事して、あんたの食い扶持を稼いでるんだよ・・・(泣)
毎日働いて家にいる時間がなく、子供が懐かない・・・と嘆いている、お父さんみたいな心境です~(泣)
しかし、その後、サノスケの孤独は突然破られました。つづく・・・。
本の紹介三題噺 |
文鳥ブログに来てくださるかた、すみません、その後のことをご報告できないままですが、いましばらくお待ち下さい。
今回は「本の紹介三題噺」です。
もう半年なのか、まだ半年なのか、被害状況や復旧状況によって実態は様々だと思いますが、今ようやく、「あの日」からのことが、本となって姿をあらわすようになりました。カモミールさんや、ほかの被災されたかたによると、当日は何が起こったのか、どのくらいの範囲で被害があったのかわからなかった、ということを聞きました。「ここだけなのだと思った」「よその被害は一週間後にテレビで知った」など。ライフラインが絶たれ、情報も入ってこないのですから無理もありません。
「6枚の壁新聞」 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録
そんななか、なんとか情報を提供しようとした新聞社がありました。石巻日日新聞。
社屋はなんとか残ったものの、新聞を印刷することは出来ません。彼らのしたこと、それは手書きの新聞を作って避難所などに届けることでした。しかも、印刷できないから、避難所の数だけ書くのです。「あの日」から6日間、手書きの壁新聞が避難所やコンビニなど人の集まるところに7枚ずつ張り出されていきました。
津波にのまれ、浮遊物に捕まって一晩過ごし、自衛隊に救助された記者、後ろから津波に追いかけられ、やっとのことで高台に逃げ延びた記者。皆が被災者なのです。なのに、まず取材にでかける!このことにまず驚きました。
そして、その場にいた人の語る「あの日」のこと・・・。
私は一緒に被災しているような感覚に襲われました。被災したこともないのに、、「あの日」が自分の中にやってくるのです。
社長の近江さんは、事実を記録していたにすぎないのですが、その事実があまりにも重い。しかもどこまでも広範囲に広がっているのです。6人の記者が体験した、それぞれの震災も、個々に書き留められているので、同じ時間に誰がどうしていたのかわかる構成になっているのも、リアルな臨場感がありました。
「詩の礫」 和合亮一
福島から発信されたツイッターによる詩人のつぶやき。
「放射能が降っています。静かな夜です。」
「しーっ、余震だ。何億もの馬が怒りながら地の下を駆け抜けていく」
「明けない夜はない」
福島という孤独を担って、詩人は発信し続けました。絶望の果てから、詩がなんの救いになるのかを問い続けました。これは、ことばを使って戦い続けた2ヶ月間の、詩による震災記録です。
・・・どの言葉も辛くて心に刺さります。でも不思議と痛みはありません。鋭いけれど、それは私たちに向けられた怒りではありません。地震の、原子力発電所の災害に、向けられたものです。悲しみが、苦悩が、なにより和合さんの力が伝わってきます。詩は被災者を直接救うことは出来ないかもしれないけれど、救いたいひとのこころを動かします。極限の淵にあっても、こんなに力強い。そしてあたたかい。震災という事実を超えた真実が語られていると思いました。
その後に書かれた詩が「詩の邂逅」となって、朝日新聞社より出版されています。
私はツイッターのアカウントを持っていませんが、震災時、娘のツイッターを読むことで行動を知ることが出来、とてもありがたかった。ツイッターは、人と人とを結び、大きな力になるコミニュケーションになるのでしょうか。
和合さんのフォロアーは一万人を超え、まだ増え続けているそうです。
「地震イツモノート」 渥美公秀
東日本大震災後、一時品切れになっていたようですが、また増刷されて手にはいるようになっていました。寄藤文平さんの挿絵とあいまって、さらっとして読みやすい防災の本です。「淡路大震災の被災者167人にきいたキモチの防災マニュアル」という副題の通り、これは体験に基づいていますが、それをもとにわかりやすくシステム構築してあります。
地震に備えよう、という本はたくさんあるのですが、「イツモ」防災意識を持って「モシモ」のときに備えていよう、という考え方に共感しています。
被災者の体験を知ることは、じぶんが被災してもし生き残ったら・・・というそのあとに、なにが始まるのかということを知ることです。食べるもののこと、寒さからどうやって身を守るのか、避難所でのマナー、など。水道も電気もない、原始に帰った生活なのです。そこに大勢の人が秩序を持って暮らす方法が、ここには書かれています。
「あの日」何が起こったのか、私たちはいやというほどテレビや新聞で見せられました。そのなかに、ひとりひとりの生活があり(またはあった)ということよりも、破壊し尽くされた世界が映し出され、それが毎日繰り返される日々に打ちのめされてきました。復興をささやきながら、それでも映像を映すしかない媒体に、私は未来を見いだせませんでした。
報道写真集や、写真家による写真集もたくさん出ましたが、どのページにも焼き付けられる刺激的な光景は、テレビとおなじでした。
そして今やっと、私の耳にひとりずつ、人々の声が聞こえてきました。「誰かのために」活動するひとたちがあちこちから、ツイッターやフェイスブックで、または本のかたちをとって。私は文字によって知る震災にこころを打たれます。そこで何が起こったのかを語るひとたちのことばはおひとりおひとり皆違っています。そしてなにより、肉声の分だけあたたかいのです。
声は希望を紡いで、糸はだんだん太くなりつつあります。
私はこれからも、そういうひとたちの声を聞いて、自分に出来ることを探していきたいと思いました。
ラジオで永六輔さんが言っていました。「今、なにかしたい、という気持ちも大事だけれど、無理に今しなくてもいい。その気持ちをずっと持ち続けることの方が大事です。そのときが来たら、行動すればいいのです。」と。
忙しい今の自分の言い訳みたいですが、忘れずにいようと思うのです。
今回は「本の紹介三題噺」です。
もう半年なのか、まだ半年なのか、被害状況や復旧状況によって実態は様々だと思いますが、今ようやく、「あの日」からのことが、本となって姿をあらわすようになりました。カモミールさんや、ほかの被災されたかたによると、当日は何が起こったのか、どのくらいの範囲で被害があったのかわからなかった、ということを聞きました。「ここだけなのだと思った」「よその被害は一週間後にテレビで知った」など。ライフラインが絶たれ、情報も入ってこないのですから無理もありません。
「6枚の壁新聞」 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録
そんななか、なんとか情報を提供しようとした新聞社がありました。石巻日日新聞。
社屋はなんとか残ったものの、新聞を印刷することは出来ません。彼らのしたこと、それは手書きの新聞を作って避難所などに届けることでした。しかも、印刷できないから、避難所の数だけ書くのです。「あの日」から6日間、手書きの壁新聞が避難所やコンビニなど人の集まるところに7枚ずつ張り出されていきました。
津波にのまれ、浮遊物に捕まって一晩過ごし、自衛隊に救助された記者、後ろから津波に追いかけられ、やっとのことで高台に逃げ延びた記者。皆が被災者なのです。なのに、まず取材にでかける!このことにまず驚きました。
そして、その場にいた人の語る「あの日」のこと・・・。
私は一緒に被災しているような感覚に襲われました。被災したこともないのに、、「あの日」が自分の中にやってくるのです。
社長の近江さんは、事実を記録していたにすぎないのですが、その事実があまりにも重い。しかもどこまでも広範囲に広がっているのです。6人の記者が体験した、それぞれの震災も、個々に書き留められているので、同じ時間に誰がどうしていたのかわかる構成になっているのも、リアルな臨場感がありました。
「詩の礫」 和合亮一
福島から発信されたツイッターによる詩人のつぶやき。
「放射能が降っています。静かな夜です。」
「しーっ、余震だ。何億もの馬が怒りながら地の下を駆け抜けていく」
「明けない夜はない」
福島という孤独を担って、詩人は発信し続けました。絶望の果てから、詩がなんの救いになるのかを問い続けました。これは、ことばを使って戦い続けた2ヶ月間の、詩による震災記録です。
・・・どの言葉も辛くて心に刺さります。でも不思議と痛みはありません。鋭いけれど、それは私たちに向けられた怒りではありません。地震の、原子力発電所の災害に、向けられたものです。悲しみが、苦悩が、なにより和合さんの力が伝わってきます。詩は被災者を直接救うことは出来ないかもしれないけれど、救いたいひとのこころを動かします。極限の淵にあっても、こんなに力強い。そしてあたたかい。震災という事実を超えた真実が語られていると思いました。
その後に書かれた詩が「詩の邂逅」となって、朝日新聞社より出版されています。
私はツイッターのアカウントを持っていませんが、震災時、娘のツイッターを読むことで行動を知ることが出来、とてもありがたかった。ツイッターは、人と人とを結び、大きな力になるコミニュケーションになるのでしょうか。
和合さんのフォロアーは一万人を超え、まだ増え続けているそうです。
「地震イツモノート」 渥美公秀
東日本大震災後、一時品切れになっていたようですが、また増刷されて手にはいるようになっていました。寄藤文平さんの挿絵とあいまって、さらっとして読みやすい防災の本です。「淡路大震災の被災者167人にきいたキモチの防災マニュアル」という副題の通り、これは体験に基づいていますが、それをもとにわかりやすくシステム構築してあります。
地震に備えよう、という本はたくさんあるのですが、「イツモ」防災意識を持って「モシモ」のときに備えていよう、という考え方に共感しています。
被災者の体験を知ることは、じぶんが被災してもし生き残ったら・・・というそのあとに、なにが始まるのかということを知ることです。食べるもののこと、寒さからどうやって身を守るのか、避難所でのマナー、など。水道も電気もない、原始に帰った生活なのです。そこに大勢の人が秩序を持って暮らす方法が、ここには書かれています。
「あの日」何が起こったのか、私たちはいやというほどテレビや新聞で見せられました。そのなかに、ひとりひとりの生活があり(またはあった)ということよりも、破壊し尽くされた世界が映し出され、それが毎日繰り返される日々に打ちのめされてきました。復興をささやきながら、それでも映像を映すしかない媒体に、私は未来を見いだせませんでした。
報道写真集や、写真家による写真集もたくさん出ましたが、どのページにも焼き付けられる刺激的な光景は、テレビとおなじでした。
そして今やっと、私の耳にひとりずつ、人々の声が聞こえてきました。「誰かのために」活動するひとたちがあちこちから、ツイッターやフェイスブックで、または本のかたちをとって。私は文字によって知る震災にこころを打たれます。そこで何が起こったのかを語るひとたちのことばはおひとりおひとり皆違っています。そしてなにより、肉声の分だけあたたかいのです。
声は希望を紡いで、糸はだんだん太くなりつつあります。
私はこれからも、そういうひとたちの声を聞いて、自分に出来ることを探していきたいと思いました。
ラジオで永六輔さんが言っていました。「今、なにかしたい、という気持ちも大事だけれど、無理に今しなくてもいい。その気持ちをずっと持ち続けることの方が大事です。そのときが来たら、行動すればいいのです。」と。
忙しい今の自分の言い訳みたいですが、忘れずにいようと思うのです。
文鳥 |
とうとうこの日が来てしまいました。
ブログをはじめたのも、まだ中ヒナだったしろがやってきて、その様子を記録したいと思ったからです。
そのしろが、いなくなってしまいました。
9月10日の朝、大好きなつぼ巣のなかで、息を引き取りました。
推定7年5か月、大往生だった、と言ってやりたいです。
飼い主のみんは小学生から高校3年生に。このごろは受験のため、文鳥と遊ぶ暇もほとんどなくなっていました。でも、病気療養のため帰省したみんの姉ちゃんがかわりにべったり遊んでくれるようになりました。長女がしろにどんなに慰められたか、言葉に尽くせません。腫瘍が出来たとき、そして今回も、しろの変化にすぐに気づいてくれたのもこのお姉ちゃんでした。
母がいたときは、ちょこんと手に載って母を喜ばせ、ヘルパーさんが「かわいい!」といってご自分も白文鳥を飼い始めました。母も、ヘルパーさんも、いつもしろに目を細めていました。その母が亡くなったとき、しろは、こんどは私の傍にいて、慰めてくれました。ゴマ吉が死んだときにも、いつも傍にいてくれた・・・。ゴマ吉も、サノスケも、すんなりと受け入れてくれ、仲良くしてくれたしろ、人間にはよく噛みついたけど(それは私のことですけど)文鳥には優しかった。
いなくなってしまってから、そういえば・・・と思い当たるばかりですが、いつのまにかしろは「握り文鳥」になっていました。長女が毎日馴らしていたのでそうなったのかとも思いますが、やはり弱っていたのでしょう。かごに手を入れるとだれの手でもちょこんと乗ってきて、ほっぺたをなでてもらい、目をつぶっていました。しろなりの、お別れの挨拶だったのかもしれません。最後に家族全員に握られてから、旅立っていきました。
前の晩、いよいよしろがうつらうつらしてきて、足もとも危なくなってきたのでつぼ巣を入れました。
私はしろにハチミツ水を飲ませ、てのひらでアワタマを食べさせたのが最後でした。しろはけなげにもアワタマをつついて食べてくれました。そっとつぼ巣に戻し、あとはときどき覗きました。最後に長女が覗いたのは午前3時。まだ息があったと言います。亡くなる朝までサノスケが一緒に中に入っていました。
みんなで最後のお別れをしたあと、なきがらは長女とみん兄ちゃん、夫さんがゴマ吉も眠るもみの木の根もとに、つぼ巣ごと埋めました。長女は大泣きだったと、仕事から帰って夫さんに聞きました。
ゴマ吉のときもそうでしたが、しろもブログを通じてたくさんのかたにかわいがっていただきました。だから、できるだけのことはきちんとお伝えしなければと思い、こうしてご報告いたします。これまで遊びに来てくださったすべてのみなさま、ほんとうにありがとうございました。いるのがあたりまえで、いつまでも生きているのがあたりまえだと思っていたバカな世話人を許してください。今回は楽しいブログでなくてごめんなさい。
ラストショットは9月1日、握られる様子を撮ろうとしたのが最後になりました。
これまでどれだけ、しろが家族や関わってくれた人(鳥)に幸せをもたらしてくれていたことでしょう。そのしろがいなくなってしまった・・・そう思うと、ことのほかこたえます。
しろ、7年間もみんなに幸せをくれて、ありがとう。
ブログをはじめたのも、まだ中ヒナだったしろがやってきて、その様子を記録したいと思ったからです。
そのしろが、いなくなってしまいました。
9月10日の朝、大好きなつぼ巣のなかで、息を引き取りました。
推定7年5か月、大往生だった、と言ってやりたいです。
飼い主のみんは小学生から高校3年生に。このごろは受験のため、文鳥と遊ぶ暇もほとんどなくなっていました。でも、病気療養のため帰省したみんの姉ちゃんがかわりにべったり遊んでくれるようになりました。長女がしろにどんなに慰められたか、言葉に尽くせません。腫瘍が出来たとき、そして今回も、しろの変化にすぐに気づいてくれたのもこのお姉ちゃんでした。
母がいたときは、ちょこんと手に載って母を喜ばせ、ヘルパーさんが「かわいい!」といってご自分も白文鳥を飼い始めました。母も、ヘルパーさんも、いつもしろに目を細めていました。その母が亡くなったとき、しろは、こんどは私の傍にいて、慰めてくれました。ゴマ吉が死んだときにも、いつも傍にいてくれた・・・。ゴマ吉も、サノスケも、すんなりと受け入れてくれ、仲良くしてくれたしろ、人間にはよく噛みついたけど(それは私のことですけど)文鳥には優しかった。
いなくなってしまってから、そういえば・・・と思い当たるばかりですが、いつのまにかしろは「握り文鳥」になっていました。長女が毎日馴らしていたのでそうなったのかとも思いますが、やはり弱っていたのでしょう。かごに手を入れるとだれの手でもちょこんと乗ってきて、ほっぺたをなでてもらい、目をつぶっていました。しろなりの、お別れの挨拶だったのかもしれません。最後に家族全員に握られてから、旅立っていきました。
前の晩、いよいよしろがうつらうつらしてきて、足もとも危なくなってきたのでつぼ巣を入れました。
私はしろにハチミツ水を飲ませ、てのひらでアワタマを食べさせたのが最後でした。しろはけなげにもアワタマをつついて食べてくれました。そっとつぼ巣に戻し、あとはときどき覗きました。最後に長女が覗いたのは午前3時。まだ息があったと言います。亡くなる朝までサノスケが一緒に中に入っていました。
みんなで最後のお別れをしたあと、なきがらは長女とみん兄ちゃん、夫さんがゴマ吉も眠るもみの木の根もとに、つぼ巣ごと埋めました。長女は大泣きだったと、仕事から帰って夫さんに聞きました。
ゴマ吉のときもそうでしたが、しろもブログを通じてたくさんのかたにかわいがっていただきました。だから、できるだけのことはきちんとお伝えしなければと思い、こうしてご報告いたします。これまで遊びに来てくださったすべてのみなさま、ほんとうにありがとうございました。いるのがあたりまえで、いつまでも生きているのがあたりまえだと思っていたバカな世話人を許してください。今回は楽しいブログでなくてごめんなさい。
ラストショットは9月1日、握られる様子を撮ろうとしたのが最後になりました。
これまでどれだけ、しろが家族や関わってくれた人(鳥)に幸せをもたらしてくれていたことでしょう。そのしろがいなくなってしまった・・・そう思うと、ことのほかこたえます。
しろ、7年間もみんなに幸せをくれて、ありがとう。
文鳥 |
しろとサノスケが手のひらに載るようになって、ずいぶんたつような気がしますが、まだ一ヶ月もたっていません。
それくらい、毎日長女の手の中にいます。
そしてすぐに寝てしまうしろ。もうおばあちゃんなんですものね。
しろにべったり甘えてしなだれかかるサノスケ。
重たいのよッ!!
ともあれ、あいかわらず仲良しの2羽です。
長女と、みんの2人に爪切りを任せました。みんでなくてはサノスケを捕まえられないし、長女の方が目が良いので「血管から3ミリ」のところできちんと爪を切ることができるからです。
サノスケはそう簡単には切らせてくれません。みんは噛みつかれてかなり痛がってました。
私は、カメラ係になることができたので、はじめて爪切りの写真を撮ることができました。みんとふたりのときはできませんでしたねぇ・・・・。
ちなみに、文鳥保定の仕方は、ジャクボーさんの「文鳥団地」を参考にしてください。胸を強く握ると窒息死してしまうことがあるので、夢中で掴むと危険です。
それくらい、毎日長女の手の中にいます。
そしてすぐに寝てしまうしろ。もうおばあちゃんなんですものね。
しろにべったり甘えてしなだれかかるサノスケ。
重たいのよッ!!
ともあれ、あいかわらず仲良しの2羽です。
長女と、みんの2人に爪切りを任せました。みんでなくてはサノスケを捕まえられないし、長女の方が目が良いので「血管から3ミリ」のところできちんと爪を切ることができるからです。
サノスケはそう簡単には切らせてくれません。みんは噛みつかれてかなり痛がってました。
私は、カメラ係になることができたので、はじめて爪切りの写真を撮ることができました。みんとふたりのときはできませんでしたねぇ・・・・。
ちなみに、文鳥保定の仕方は、ジャクボーさんの「文鳥団地」を参考にしてください。胸を強く握ると窒息死してしまうことがあるので、夢中で掴むと危険です。