鏡の法則批判 まとめ
まず該当文章の構造を批判しました。
「鏡の法則」のロジック?改変されたシンクロニシティ
ここで述べたことは、シンクロニシティをいう考え方を「良い考えを持てば良い偶然が起こる」と理解するのは、確定されていない学説を「一般的に認められている」とし、さらに「効能」があるとして恣意的に変えて用いる点の批判でした。
次に、その文章の中にある「合理的思考」と「近代科学」への根拠のない批判と、それに対置するものとして「宗教」と「心理学」を持ち出していることへの違和感を「神話」をもとにして書きました。
「感謝する」という神話
その後ブログとの関連などを書いていたんですが、時間経過とともに当ブログに訪れる人の検索ワードが一定の傾向にあることに気づき、文章と共時性がいかに関連しているかをグーグルとヤフーの検索結果をもとに実証しました。
ぐぐってわかる鏡の法則
この結果は予想以上に「鏡の法則」と「共時性」が関連しているということを改めて示すものとなりました。さらに、この関連性のもとに「コーチング」「コンサルティング」といったビジネスでこの考え方が用いられていることも、下位検索結果を調べることで、期せずして実証された形となりました。
その後、ユング理論である共時性によらずとも「意味のある偶然」は起こるとしてマーフィーの法則を例に引き帰納推論の落とし穴を説明しました。
失敗する可能性があるものは必ず失敗する、のか?
その続きとして、帰納推論の落とし穴をさらに強化する「確証バイアス」を説明し、「人は単なる偶然に意味を見出し、さらにその意味付けを強化する方向で考える傾向がある」ということを説明しました。
確証バイアスを利用する
以上のことから、鏡の法則なる文章は私たちが日ごろ行いがちな「単なる思い込み」をもって「意味のある偶然」という論理的・常識的に間違った方向に導き、それに共時性(シンクロニシティ)という解釈に慎重を要する学説を当てて「効果がある」と喧伝するマインドビジネスにより利用される文章であると結論付けました。
共時性という現象を信じる信じないは個人の自由という範疇かもしれません。しかし、共時性は宗教ではないですし、一般普遍の原理でもありません。事実、共時性を「ユングの思い込みである」と断じる学者もいます。(wikipedia参照)
問題はその共時性をビジネスに利用し、効果があると喧伝する行為にあるといえます。
この考え方は「反証」が不可能であるという点も問題となってきます。もしも、利用したユーザーから「効果がない」とクレームがきた場合、ビジネス側は「それは心が正しくない」という形で言い逃れができます。
ビジネスとしてこの考えを扱うというなら、フェアなものではないと判断します。そして、霊感商法、催眠商法に類するものであろうと結論付けます。
ぐぐってわかる鏡の法則
そこで気がついたのが検索順位。
たとえばGoogle検索フレーズを見ると「鏡の法則 シンクロニシティ」か「鏡の法則 共時性」というものが見られます。
それらキーフレーズをもとに行なわれる検索結果がこれ。(7月20日現在)
検索結果1(共時性を含む)
検索結果2(シンクロニシティを含む)
1番目の例では当ブログが553hit中の4番目に来ていることと、玄倉川さんのエントリ(ただしコメント部分でのhit)がトップに来ていることがわかります。それはまぁ、例の文章と共時性を結びつけて書かれた文章をロボットがサーチした結果ですから、正しいとか正しくないということではなくて、何らかのサーチ条件の下で最適化されていると判別されたからでしょう。
そして、同時に「幸せ成功力を日増しに高めるEQコーチング!毎日読めば目標達成力を多角度から強化できます!」が2位につけています。
これは、共時性に関して真っ向から解釈が違うエントリが上位を占めているという点で面白いと思うのですが、反面、否定的エントリがなかったらこのフレーズにおいて「鏡の法則」関連では共時性を肯定的に捉える立場のHPが独占的に検索上位を占める結果になっていたと思われることが興味深いです。
つまり、それだけ共時性というフレーズがひとつの解釈にかたより、しかもそれらはマインドビジネスにとって重要なキーワードとなっていることを示しているんじゃないでしょうか。
「鏡の法則」という文章自体への批判はたくさんありますしそのどれもがまっとうな批判だと私には思えるのですが、それを前提にして共時性にからめた批判は
上記部分の訂正:
諸悪莫作さんのところも上位に来ています。こちらはかなり難しい内容だと思いますが。私も素朴な解釈をしている一人かもしれません。
下位検索結果をみても、個人的に日常的な感覚として「共時性」を受け入れている人が多く、マインドビジネスに関連するとは思えないビジネスブログやHPでもそれを「成功のために有用な現象」とみなしているところがとても多いのですね。
まさに当ブログにとっては「多勢に無勢」の状態なんですが、これをどう解釈するか?
やっぱり「共時性」はマインドビジネスに応用することが「正しい」のか、ユングの理論が無条件・無批判に受け入れられているという意味で憂うべきことなのか。
今後の課題となりそうです。
プレゼンテーションが示すブログの現実
(ほんまかいな? と思った人は、鏡の法則をちを見てください。私なりの結論を出した過程がわかります)
それに対していっせいにブロガーが反応したんですが、反応したブロガーの挙動を見ると、このプレゼンにうまく乗っかっちゃった人=「感激した人」 VS プレゼンの欺瞞性を感じ取り「懐疑を抱いた人」 という構図が出来上がった。
懐疑を抱いた人はモヒカン的に批判を入れたのですが、それで何が起こったかというと、コミュニケーションの消滅。
感動した人は黙り込むか、そんなに批判するほどのものではないという立場をとった。そこに批判者がコメントをつけても、ほぼ無視。
また、批判ブログにはその批判を支持するコメントが集まったが、肯定論者が真っ向から切り込むという図式もほぼ皆無。
中には中立的に振る舞い、かつどちらにも擦り寄るという態度の人もいたが少数派だったように見える。
つまり、あの文章に対してブロガーが示した反応というのは、肯定的か否定的かという二極分化でしかなかったのかなぁと思います。
ブログに関する研究で面白いものがあった。(必要によりほぼ全文引用します)
weblogの心理学研究 より
個人ウェブサイト・ブログ・SNSはあなたにとってどのような効果がありますか?
今年5月7日?9日にweblogやSNSの利用状況に関する簡単なアンケートをオンライン(自分のweblog、SNS日記経由)で実施した。「個人ウェブサイト・ブログ・SNSはあなたにとってどのような効果がありますか?」という質問項目(自由記述)に対する結果をまとめると、以下の通り。
1. コミュニケーション
2. 自己主張・自己表現
3. 自己理解
4. 情報獲得・共有
5. ストレス発散、昇華
上記の1に分類される回答が最も多く、1?3に分類される内容が大半を占めていた。
コミュニケーションが一位というのはわからなくもないし、自己主張・自己理解が次に続くのもわかります。そして今回の出来事は、自己主張が前面に出てきたわけです。
しかし、その後このことについて対立する人たちの間で、何らかのコミュニケーションが引き続いて発生してもおかしくないと思うんですが、見ている範囲ではそうはならなかった。
それを考えると、実のところ、ブロガーの求める「コミュニケーション」は「対話」と等価ではなく、あくまで「仲間うち」のコミュニケーションが求められているということではないのかなぁ。
そこには「肯定論者」と「否定論者」ともに「異質なものは排除」という「ムラ社会」の特性のみが浮き彫りにされた形ではないかと思う。というか、かなりの多人数がそれぞれの価値観を共有してその中に引きこもったと言えるんじゃなかろうか。
肯定論者と否定論者はこの現実からどこに進むのだろう。
「鏡の法則」の欺瞞性があらわになって皆が「醒めた」というなら、それはそれでいいですけどね。
攻防戦は無意味
私は「感動しなかった」側なんですが、理由をあげると、「すでにどこかで見たような話」であることがまず第一。次に一読して「これは心理学をからめた商業主義的文書」であると判断したため。
だから「ふーん。」で終わってしまった。仕方ないけど私にとっての事実はそれ。
そして「感動しなかった」側は、多かれ少なかれその文章に突っ込みを入れています。
「稚拙な文章だ」とか「カルトまがいだ」とか「心理学の悪用だ」とか。それぞれになるほどと思える理由付けをしているのが感じられます。
一方、たくさんの人が「感動した」としています。こっちの場合は「感動した」ことがそも「理由」なんですから、そこに解説を加えるようなことはあまりない。
で、この両者の出会いで起こりがちなのが、「批判完全無視」と「私は感動したけど、負けですかそうですか」的な反応。
これはある意味仕方のないことでしょう。かたや理屈でばっさばっさと突っ込みますから、いい話だと感じた側は「自分の感性を切り刻まれた」に近い心持ちになるのですから。
それだけに、「鏡の法則」は罪作りな文章です。ネットの住人は「鏡の法則」を読んで泣く人だけとは限らないわけです。
これが「純粋な短編小説」だったら、こういう騒ぎは起きなかったのかもしれません。
今回、鏡の法則に突っ込みを入れた人だって、小説の世界で「泣ける」「泣けない」の違いをこれほど攻撃するような無粋はしないでしょう。
無粋だってわかっていても突っ込まざるを得ないというのが実際のところでしょう。
それだけに、「私は泣けた。いけませんか? たとえそれがカルトだっていいじゃないですか」的な反応が一番まずいものに思えますね。
一番思考停止しちゃってますから。そして思考停止を鎧にしちゃってますから。
自己啓発セミナー批判サイト
自己啓発セミナーを暴露しちゃるっ!
何で懐かしいかって?
恥ずかしながら、もうだいぶだいぶ前になりますが、この手のセミナーに行っちゃった経験があるからです。
その当時は「ライフ○イナミックス」といってました。
知っている人もおありかと思います。
上記HPに書かれていること、まさにそのまんまです。私は2段階終了時でドロップアウトしました。次に進むお金がなかったのと、なにかうさんくさいものを感じて「醒めた」からです。
そんなこともあり、自己啓発セミナー系には嗅覚が働くようになりました。
それにしても昔のことがフラッシュバックするような正確な内容でびっくりです。
「感謝する」という神話
B氏のコンサルティング(ってほどのもんでもないが)によりA子は心の鎖が解けたように感謝を始める。そのとたん子供のいじめがなくなるわけです。
この点は「鏡の法則」のロジック?改変されたシンクロニシティで詳しく解説しました。
A子がびーびー泣く場面に至るコンサルティングの手法に関しては、数々の優秀なブログが解析を加えているからそちらを見ていただくとして、ここではちょっと違う視点で「泣き」の場面を考えようと思います。
これ、言ってみれば「近代学問」「合理主義」というクールで硬い、いわば男性的な感覚に対する反動と取れるんですね。
この反動が結晶化したような言葉が「感謝」だと思えます。
B氏がいみじくも言ってます。
A子「子どもがいじめられるということと、私の個人的なことが、なぜ関
係があるんですか?何か宗教じみた話に聞こえます。」
B氏「そう思われるのも、無理もないです。われわれは学校教育で、目に
見えるものを対象にした物質科学ばかりを教えられて育ちましたからね。
今、私が話していることは、心理学ではずいぶん前に発見された法則なん
です。昔から宗教で言われてきたことと同じようなものだと思ってもらっ
たらわかりやすいと思います。
「鏡の法則」
物質科学=「近代学問」「合理主義」 ですね。
その反対に位置するものが、B氏に言わせれば「心理学」であり「宗教」だと。
その意味での「心理学」を使えば問題が解決するわけですが、そのキーポイントになるのが「感謝」。
事実、「感謝」は物質科学とは相容れないものであるというイメージがありますね。
でも実はこれまたユングがからむようなんです…。
というか、ユング以降、1960年代に発達し始めた「トランスパーソナル心理学」の流れです。
以下、私なりに調べたトランスパーソナル心理学の流れ。
*****
トランスパーソナル心理学はアメリカで起こった「人間性心理学」から端を発した人間性の解放を目的とする考え方で、その後「カウンセリング」を創始したC.R.ロジャース、「自己実現の心理学」を考えたA.マズローの心理学が発達します。
その当時のアメリカ社会情勢(反戦、ウーマンリブ)と相互に影響を与えつつ、トランスパーソナル心理学が生まれます。
トランスパーソナル心理学の特徴は、語義どおり「パーソナルをトランスする」、つまり「個を超える」心理学ということです。
この心理学では今まで個人主義的に存在していた「個々の人々」は合理主義の名の下に功利、利潤を追求することに偏重してしまい「宗教や共通する価値観を失ってしまった現代人」であるのだと考えます。
その事実に対し、「再び個を水平的に広げ、垂直的に掘り下げ、つながろう」とする試み、といっていいでしょう。
その点で、それまでの西洋心理学が合理主義的な考え方一辺倒だったのに対し、東洋思想(たとえば禅やチベット仏教)、呪術思想(たとえば北米インディアンや北方民族のシャーマニズム)を取り入れる方向で動きました。
そこにユングの心理学はよく適合する方向性を持っていました。ユングは人間の心は「集合的無意識」という共通基盤を持つとしていますから。
トランスパーソナル心理学はさらに、それらを頭で考えるだけでなく、体を使うということも重視しましたから、「気功」や「瞑想」などが大切な方法論として扱われたのです。
*****
さて、話を「感謝」に戻すと、「鏡の法則」に出てくる「感謝」の逸話、これは確かに「良い話」です。万人が泣くのは無理でも、たくさんの人が感激するでしょう。
しかも「泣かないやつは変じゃないか」くらいに普遍的な感情を「べたに」押し出しています。
悪いニュースが目白押しで私たちが「感謝」「感激」「許し」という行為を希求しているこの時世、非常に受け入れられやすい物語ですね。
これは、言ってみれば「感謝」「許し」の「神話」ととれます。
ここで言う神話とは、「根源的な問いに答えるもの」という意味です。
たとえばこういうこと。
「私たちはなぜこの世に生まれ、何のために生きているの?」
「なぜ人生には苦しみが伴うの」
「死んだらどうなるの?」
などなど。
これに答えられるのは「科学」ではありません。「神話」としか言いようのないもの、私たちが「納得できる」答えとしての物語、すなわち「神話」です。
こういう形の神話を、私たちが希求しているのは事実です。
A子の「悩み」は、実は「科学では答えられない」悩みなのです。
それに答えを出すのが神話つまり「鏡の法則」のような、「泣けて納得できる」お話なんだと思います。
ここまでは、まぁ、私も納得します。
「ええ話や。うんうん」
しかし、なにか語り口が変だと感じるのです。
そこから、「この文章のどこがおかしいんだろう?」という疑問がわき、自分なりに考え始めると、いくつも妙な点が上がってくるのですね。
そうすると次は、なんで作者はこんな妙な考え方を仕込んだんだろう? って思う。
そして、その裏に何らかうさんくさい動機が隠されているんじゃないか? と疑う人も少数ながらいるわけです。
私はそういう少数派のほうに入るんでしょうが、ま、それでいいと思ってます。
なぜかというと、ここが重要なんですが、トランスパーソナル心理学を基調とする考え方は、神話を重視します。というか、ひとりひとりの心の中に飛び込み、「神話を与える」技術をもっているのです。つまり、神話を通じて人の心を自在に導ける技術を持っているからです。
だから、一見いい話でも疑ってかかる必要があると思っているのです。
「神話の名を借りた罠」かもしれないですからね。
「鏡の法則」のロジック?改変されたシンクロニシティ
「鏡の法則」という文書がネットで紹介された。良い話として注目され肯定的な反応をする人が多い中、一部からその文書に対する疑義が上がった。このエントリでは、「鏡の法則」を読んだ管理人(straymind)が該当文書の核心的部分にシンクロニシティと呼ばれるユング深層心理学に属する考え方の誤用もしくは意図的曲解に基づく文章構造があると考えたため、その根拠を引用文とともに説明することを試みた。長文。
独り言:これはあくまで仮説。というか
ネタもとのあまりのバカバカしさに、このくらい真面目に構えて突っ込まないと毒が中和されそうで。
本文
ちまたで注目されている「鏡の法則」。これを読んで感動した人、胡散臭いと思った人、それぞれの反応を見ると興味深いものがあります。
「鏡の法則」は玄倉川さんのブログエントリ「ハンカチを窓から投げ捨てろ!」で知り、早速読んでみました。
ネタ元はこちら>鏡の法則(ハンカチを用意して読め!)
さらに大元はこちら>人生のどんな問題も解決する知恵 『鏡の法則』
感動した、いや、感動しなかったという意見対立があります。胡散臭いかとかここが変だとか、ここが変だといっている人のここが変だとか賑やかなんですが、私としてはこの「鏡の法則」はある種の心理学理論が意図的に改変された考え方に基づいた文章であると判断しました。
キーワードは「シンクロニシティ」です。以下、この言葉をキーワードに「鏡の法則」を読み解いて見ます。非常に簡単です。
文の大意は、育児に悩む母親Aと、いじめに悩む息子。その母親の夫という家庭があり、そこにカウンセラーじみた経営コンサルタントのB氏が絡んで、アドバイスをするうちに息子のいじめが消えてなくなる、というものです。
B氏は不思議なことに子供のいじめにまったく関与しません。それよりも、母親Aとその父親、さらに夫との過去の軋轢を解きほぐします。これにより母親は感情をゆすぶられ、自分と父、夫の関係を修復したという実感を得ます。
この実感を得たその直後、息子が帰ってきていじめっ子と和解したことを報告します。
ただこれだけ。
たしかに母親と父の和解プロセスは泣かせるものがあります。多くの人が自分の身の上と引き比べて感動するでしょう。
多くの人の意見が、この点で「泣けた」「泣けない」という対立意見を述べる形になり、さらにその手法が心理学的に正しいとか詐欺的手法だという点でも意見が分かれます。
ジャンポルスキー博士という人の本が紹介されますが、この人の考え方には「鏡の法則」らしき考え方、つまり「他人に対する感情は自分に戻ってくる、だからよい感情を持つべきだ」というものがあります。これにより、母親がよい感情を持ったからいじめがなくなったという風に捉えることができますが、当然それは文中に説明がなく、飛躍であり憶測です。
つまり、肝心の息子のいじめがなぜ終わったかという点ではまったく何の説明もなく、お話はさらりと終わります。この点で突っ込む人もいますが、あまりうまく説明されることはありません。
この部分にシンクロニシティという考え方(の模造品?)を組み込むとうまく説明がつきます。
シンクロニシティとは何かというと、心理学者ユングが唱えた考えです。Wikipediaによると:
何か二つの事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような二つの事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見做す。
これは難しい考え方で、正直私にもはっきりと理解できません。科学的な考えでないとして批判を受けたり、疑似科学(偽科学)とされたり、呪術的だという批判もあります。つまりユングはそういう考えを持ちましたが、一般に広く受け入れられている考え方ではないのです。
しかし、シンクロニシティを想定すると、私たちが出会う偶然の中には、単なる偶然(確率で決まるような偶然)以外に、「何らかの意味のあるように感じられる偶然がある」ととることができます。
こんなことがなぜ起こるかというと、ユングは「集合的無意識」というものが私たちの無意識の基底にあって、それが「個体化」したものが私たちの意識であり、私たちの意識と無意識は集合的無意識によって連絡していると考えました。そして私たちひとりひとりの意識が現実世界に作用して「偶然」が「通常の因果関係では考えられないような関連」のかたちとしてたち現れるとしたのです。
(ユングのシンクロニシティ具体例は文末の追記3を参照してください)
事実、「鏡の法則」の作者は違うところでこの考え方を採っています。おおもとの文の作者である方のホームページから引用してみますと:
シンクロニシティーとは、共時性とも訳されますが、わかりやすく言うと
「意味のある『偶然の一致』」のことです。
次のようなシンクロニシティーは、おそらく誰もが経験したことがあるの
ではないでしょうか。
・長らく会っていなかった友人のことを思い出していたら、その日にその
友人から電話がかかってきた。
・家族に何かよくないことが起きた時、自分は別の場所にいたのに、同じ
時間に、その家族のことが気になって胸騒ぎがした。(=虫の知らせ)
・友人と「ある人」のうわさをしていたら、間もなく、その「ある人」が
通りかかった。(=うわさをすれば影がさす)
これらは、人間の意識が奥底でつながっているから起こるのです。
これらの「偶然の一致」は、実は、偶然起きていたわけではなかったので
す。
シンクロニシティーと成功法則の関係とは?
(じつはこれ、シンクロニシティそのものではありません。「布置(ふち)」という考え方です。詳しくは追記を参照してください)
実際の文を見てみましょう:
思えば、今日は家事らしきことをほとんどしていない。
朝の9時ごろB氏に電話してから、1日中自分と向き合っていた。
「晩ご飯の用意、どうしよう?」
そう思った時に、息子が帰ってきた。
息子「ねえ、お母さん聞いてよ!」
A子「どうしたの?何かあったの?」
息子「C君知ってるでしょ。実は昨日、C君に公園でボールぶつけられた
んだ。」
A子「あっ、あー、そうなの。C君って、あなたを一番いじめる子だよね。」
息子「さっき公園から帰ろうとしたらC君が公園に来てさー。で、『いつも
いじめててごめんな』って言ってくれたんだ。」
A子は「そうだったの!」と言いながら、まるで奇跡でも体験しているよ
うな気持ちになった。
こんなことが偶然起きたとは思えなかった。
そして、心から感謝の気持ちが湧いてきたのだった。
鏡の法則(ハンカチを用意して読め!)
多くのブログでここの部分に突込みが入ってますよね。なんでやねんって。
今までの説明を読めばなんとなくお分かりだと思いますが、「鏡の法則」でなぜ息子のいじめがなくなったか、その記述が「偶然」であるかのようにさらりと書かれている背景に「シンクロニシティ」(作者言うところの、意味のある偶然)が想定されていると考えれば、すんなり話が通るのです。
しかし、それだけではまだ完全ではありません。なぜ母親Aが父を許し、夫を許したら「シンクロニシティー」が起こったのか?
ここがミソです。
「母親は悪い感情を持っていた。それをコンサルティングによりよい感情に変えたら、「シンクロニシティ」によりいじめがなくなるという良い偶然が生まれた」
こういうメッセージが隠されていると推測することが可能なのではないでしょうか。
わたしはこの考え方がユングのシンクロニシティを改変した「シンクロニシティ」だと思えるのです。
最後の部分を引用します。鏡の法則の作者が考えたと推測できる「シンクロニシティ」を意識しながら読んでみて下さい:
A子は、その日起きたことをすべて話した。
朝、B氏に電話をかけたこと。
午前中は、父への恨みつらみを紙に書きなぐったこと。
午後、父に電話して和解したこと。
「そうか、お父さん、泣いてはったか。」
夫も、目に涙を浮かべながら聞いてくれた。
そして、息子がいじめっ子から謝られたこと。
「ふーん、不思議なこともあるもんやな。Bさんのやり方は、俺にはよく
分からんけど、おまえも楽になったみたいでよかったな。」
続けてA子は、泣きながら夫に謝った。
そして夫も、泣きながら聞いたのだった。
鏡の法則(ハンカチを用意して読め!)
ユングはシンクロニシティを考えました。もともとのシンクロニシティには「意味があるとしか思えない偶然」はあるかもしれないとしていますが、そこに「善悪」は考えられていません。ましてや、「自分に都合のいい偶然が都合のいいときに起こる」なんてことはありません。
このことを警告した文章を引用します:
シンクロニシティは一見突飛な理論に見えるが,深く考えると,超心理学の諸理論と関係づけられ,理論を整理するうえで有効なものである。しかし,理論としての実効性は,あらかじめ「意味」をどう捉えておくかに,大きく依存している。「意味」が(元型などとして)事前定義されていないと,逆にシンクロニシティによって意味の定義を見出すようになってしまう。そうなるとシンクロニシティは,世界を予測する理論ではなく,意味とは何かを定義する手段となる。偶然の一致から迷信を生み出す手段にもなるので,注意が必要である
超心理学講座 シンクロニシティ
つまり、鏡の法則はユングのシンクロニシティ概念そのものではなく、「善悪を基本とした因果律に関連して人生を支配する意味のある偶然」という意図的に改変した意味で「シンクロニシティ」という考え方を用い、それをもとに「良い感情を持てば良い偶然が生まれる」としたものなのではないでしょうか。
「善悪を基本とした因果律に関連する意味のある偶然が人生を支配する」って、言い回しはやけに難しいですし矛盾しているように思えますが、理詰めで考えれば「鏡の法則」はそうとしかいえないものです。
こうすると、「人生のどんな問題も解決する知恵 『鏡の法則』」という言葉も、その背景がわからない人にとっては説得力を持ちます。
コンサルティングにより「悪い感情」を「良い感情」に修正すれば「良い偶然」が転がり込んでくるのですから、確かに「人生のどんな問題も解決」することでしょう。
でもそれ、都合よすぎません? というか、神社で神様にお願いしてお賽銭を入れたら良いことが起こると保障するよと神主さんがいうようなものじゃありませんかね。
しかも、これを逆に考えれば「悪い感情を持っていると悪いことが起こる」と取れます。
これは実際に冒頭でB氏がA子に言っていることです。ちょっと長いですが引用してみましょう:
A子「子どもがいじめられるということと、私の個人的なことが、なぜ関
係があるんですか?何か宗教じみた話に聞こえます。」
B氏「そう思われるのも、無理もないです。われわれは学校教育で、目に
見えるものを対象にした物質科学ばかりを教えられて育ちましたからね。
今、私が話していることは、心理学ではずいぶん前に発見された法則なん
です。昔から宗教で言われてきたことと同じようなものだと思ってもらっ
たらわかりやすいと思います。私自身は宗教には入っていませんけどね。」
A子「その心理学の話を教えてください。」
B氏「現実に起きる出来事は、一つの『結果』です。『結果』には必ず『原
因』があるのです。つまり、あなたの人生の現実は、あなたの心を映し出
した鏡だと思ってもらうといいと思います。例えば、鏡を見ることで、『あ
っ、髪型がくずれている!』とか『あれ?今日は私、顔色が悪いな』って
気づくことがありますよね。鏡がないと、自分の姿に気づくことができな
いですよね。人生というものが鏡だと考えてみて下さい。人生という鏡の
おかげで、私たちは自分の姿に気づき、自分を変えるきっかけを得ること
ができるのです。人生は、どこまでも自分を成長させていけるようにでき
ているのです。」
A子「私の悩みは、私の何が映し出されているのですか?」
B氏「あなたに起きている結果は、『自分の大切なお子さんが、人から責め
られて困っている』ということです。考えられる原因は、あなたが『大切
にすべき人を、責めてしまっている』ということです。感謝すべき人、そ
れも身近な人を、あなた自身が責めているのではないですか?一番身近な
人といえば、ご主人に対してはどうですか?」
(以下略)
鏡の法則(ハンカチを用意して読め!)
特に、ここに注目してください:
つまり、あなたの人生の現実は、あなたの心を映し出
した鏡だと思ってもらうといいと思います。
同箇所より再び引用
一般的に見れば「心がけ次第で人生は変わる」、という人生訓に見えますが、著者のメッセージとして前後の文脈から考えれば実質は違うものだといえます。
それは一見宗教的に「因果応報」に近い考え方ですが、それよりも「想ったことが現実に対して作用する」という点では呪術的なイメージです。そして、心理学的には「シンクロニシティ」(しかも改変された考え方)になります。
だから、自分の思いが自分の人生に跳ね返ってくる「鏡の法則」なんですね。
シンクロニシティという、いまだ本当かうそかわからない考え方を「真実である」と断定し、それを都合のいいように変えて「人生の問題を解決します」というのが作者の意図ではないでしょうか。
しかも、「鏡の法則」にはシンクロニシティという言葉は出てきません。しかししつこく、印象的にそれらしき出来事がちりばめられています。巧妙に隠されているのではないかと思える文章です。
さてここからが本題。
意味のありそうな偶然って、たしかに良く起こりますよね。コンサルティングにより、自分の感情のなかにある「悪い部分」が変わり、「良い部分」を実感できたとしましょう。コーチはこう言うかも知れません。
「では、三日間普通に生活してみてください。きっと何か良い変化が起こりますから」
そして三日後。
「何かいいことがありましたか?」
三日もあれば、何かひとつぐらい嬉しい偶然がありますよね。それをコーチに告げると。
「そうですね、それがシンクロニシティによる効果です。あなたの感情が良い方向に向かったのですから、そういう偶然が現れ始めたのです。もう少しがんばってみましょう。そうすれば、もっと良い偶然が訪れるようになります」
ああ。こうしてセミナーは繁盛していく、のかもしれません。
******
さいごまで読んでいただいてありがとうございます。
最初にざっと思いつくまま書いた後、ちょくちょく加筆修正しています。2006/07/13現在バージョン2.5くらい。そうしたら長い長い文章になってしまったぁ。(^^;
追記
二番目の引用で作者の人が言っている「シンクロニシティー」は、実は「布置(ふち)、コンステレーション」というもので、「一見別々に起こった出来事でも、あるひとにとっては大事な意味を持つめぐり合わせ」という考え方です。たとえば適切な時期に伴侶にめぐり合う(運命的な出会い)、ふらりと入った本屋で興味を持っていた分野の大切な本をたまたま手に取る、いやなことがあるとさらにいやなことが起こる(泣きっ面に蜂)など。これは「偶然なのだが本人にとっては意味がある」という程度のものです。
ユングはこれをもとにして「非因果的連関の原理」、すなわちシンクロニシティーという概念を発展させました。
追記2
ユング心理学は深層心理学といわれる学問のひとつです。その心理学をもとにして、ユングは統合失調症(当時は精神分裂病といわれました)の研究に大きく貢献しました。そのほかにもうそ発見器開発の原点を作り、アルコール依存症・薬物依存症解決にも大きく貢献したり、UFO研究に貢献したりと、さまざまな分野で影響を与えました。
ユングの心理学から発達した心理療法はおもに「対話」をもちいて来談者(患者)と向き合う方法をとります。ユング後に発展した主な考え方は三つあり、「内なる象徴と対話する:古典派」、「イメージと対話する:元型派」、「人間の精神的成熟と対人関係を重視する:発達派」にわかれます。
日本にユング派心理学をもたらし普及させた人は河合隼雄で、箱庭療法という治療法を用いました。また河合はユング心理学を日本人向けに修正した業績でも知られます。
また、ユング派の心理療法は、精神分析など他のやり方を用いる心理療法家とも交流を持ち、発展を続けています。
さらにユング心理学はトランスパーソナル心理学の誕生に多くの影響を与えました。
追記3
ユングのシンクロニシティの例をひとつ挙げておきます。どなたでも参照できるようにネット上のソースを取り上げました。
ユングのシンクロニシティの最も有名な例は、プラム・プディングに関わるものである。ユングの語るところによれば、Deschamps という人物が、隣家の de Fortgibu からプラム・プディングをご馳走してもらったことがあった。その十年後、Deschamps はパリのレストランでメニューからプラム・プディングを注文したが、給仕は他の客に最後のプディングが出されてしまった後だと答えた。その客とは de Fortgibu であった。更に数年後、 Deschamps はある集会で、再びプラム・プディングを注文した。Deschamps は昔の出来事を思い出し、これで de Fortgibu さえいなければ大丈夫だと友人に話していた。まさにその瞬間、年老いた de Fortgibu が、間違ってその部屋に入ってきたのである。
wikipedia シンクロニシティ より
追記4
ユングのシンクロニシティを解説したHPへのリンクです。わかりにくい専門的な文章ですが、興味のある方にはお勧めです。
超心理学講座 シンクロニシティ