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2025-01

崇高と唾棄

 転載機能を使った「善意の転載行為」が嫌いだ。何でかを考えてみた。

 大体のところ、出発点は個人の想いだ。それをブログにエントリすることで、読んだ誰かが共感してほかの誰かに伝えようとする。普通はここで転載に拠らない方法で広めようとする。

 しかし転載機能が働いている社会では、ぽちっと押すことで簡単に示せる。「ほら見て! これ読んで! ほかの人にも知らせて!」という感じか。

 ここだな。もとの記事を読んで共感し、その共感を広めようとする行為そのものが嫌なんだと気づいた。

 個人の思いを個人が受け止めそれを他人に伝えようとする行為の連鎖は情報の共有という点で有用でもあるが同時に危険だ。ときにそれは人をも殺す。口コミだってそうだ。

 転載で何かを広めようというのは、社会的な行為になる。

 善意の転載は誰に向かって語るのか。

 社会だ。

 だからこそ強く疑われるべきなのだ。

 なぜなら、個人が社会に対して発言しその連鎖を要求するのは、一人の人物がその発言の背後に社会を背負っている表明になる。

 これは政治だろう。

 オルテガの言葉を思い出したとき、卒然としてそう悟った。こんなことを書いている。

「人類に向けて話すという習慣は、最も崇高なものであり、それゆえ、デマゴギーの最も唾棄すべき形式なのである」
(白水社版 大衆の反逆 p11)

 その政治性を背負う気概もないくせに、お気軽に転載で社会を語るなと。自らの崇高性に酔うんじゃないと。そこに不確かな情報やデマが有ったら、それは唾棄すべき最低の行為になると気づけ。

 その批判を受けてたつ覚悟のある善意の転載など、見た事もないし、ましてやそれを中継する者たちにそんな気構えは微塵もないだろう。そんなことをやるくらいなら政治家になれ。市民運動家になれ。

 政治の世界なら、人類を語る人など掃いて捨てるほどいる。

・・・

 ま、実際にそういう世界にいる人間が「善意の転載」をやったら叩かれまくるだろうし、ひょっとしたら政治生命を失うくらい危険なのかも。

口承文芸としての転載機能の一考察

 私がここFC2でコメント欄を設けている理由は、批判的な記事を書くことが多いので、その突っ込み可能性を担保するために恐る恐るコメントを受け付けている、というもの。実際そういう突っ込みはあるし、それがまた有意義に機能するという点は確認している。

 一方、そうではないコメント機能もあるわけで、よく引き合いに出されるのがY!の短いコメント欄。字数制限があるのでまとまったコメントをするにはかなり不便な仕様だというのはおそらく周知のことだと思う。

 この違いを文化的な面でとやかく言うのはお門違いだと思うが、あるシステムの仕様として考えれば、Y!はその機能で顧客を選別しようとしているというのは考えられる。えっけん氏が擬似SNSと指摘したのも頷ける(ソースはどこだったかな。すみません、思い出せません)。

 さて、この違いはおそらくブログ主間の相互交流をどう設定していくかという開発ポリシーの相違であると思える。FC2はクラシカルなブログという設定であるのに対し、Y!は相互交流を促す目的という違いか。

 事実、人気度やファン機能など、相互交流の程度が目に見えてわかるバロメーターが設置され、アバターなど個人の(仮想であれ)属性が瞬時に認識できる装置もあり、それらは比較的安心して行えるユーザー間の相互交流という目的から見ればきわめて合理的と思える。相手の性別などを伺わないで会話ができる。この点は阿檀氏の議論が参考になる。

 上記のような点からすれば、Y!ブログは会員間の交流においてなるべく余分なコストを取らないように工夫されていると考えられる。これをY!の低コスト高交流ポリシーと呼ぼう。
 
 さて、そういう観点から見てよくわかんないのが転載機能であると思える。転載機能自体は、Y!の低コスト高交流ポリシーからすれば十分合目的な機能と思える。転載によりその記事の内容に同意を示し、報告コメントおよびお礼コメントを繰り返すことで相互交流が生まれる可能性はある。

 この点で、実は相互リンクやTBなどよりももしかしたら効率がいいと考えてよいのかもしれない。

 これは情報伝達コストの問題といえそうだ。もしかしたら口承文芸と筆記文芸のコストに関する考察が参考になるかもしれない。

 もともと口承文芸(昔話など)は文字が使われる以前からあった物語伝承形態で、文字の使用および印刷技術の発達により筆記文芸に取って代わられたという認識が一般的にある。

 しかし、実は筆記文芸(ブログなども含む)は、実は高コストなものであり、口承文芸は(そのほとんどがある類型を持ち構造も比較的単純であることから)筆記文芸より伝播しやすく聞いてすぐに語れるという点で低コストな文芸であるという指摘がある(関敬吾「民話」岩波書店1955 など)。

 これは実にそのとおりで、ブログにおいてもひとつのエントリをあげる作業は「語り」で伝えるのに比べて圧倒的に作業量が多い。

 ここで、「語り」という用語を使ったが、転載機能はこの口承文芸もしくは他者の「語り」を極めて低コストで伝播できる機能であると考えてよいと思う。形態は筆記文芸だが、それを読み、それをそのまま他者に伝えるという点では口承文芸にきわめて近い形態といえないだろうか。

 つまり、転載機能は、物語(エントリ)を口伝えで他者に広めるという機能を持っている。開発者はそのようなことなど思いもしなかったかもしれないが。

 こう考えると、いくつかの点で問題があると改めて指摘できる。

 ひとつは、著作権問題。私は著作権関連に詳しくはないのだが、一般的に、ブログにおいては著作物はその作者にすべての権利が帰する。それを他者(他のブログ主が想定するそのブログの読者)に伝える場合、筆記文化であれば、その著作権を考えざるを得ない。そのためリンクとか引用などの範囲内でその行為を行う。しかし、転載機能=口承文化と考えれば、(書いてあるものかどうかは問題とせず)その「内容」を「低コスト」で他者に「示す」(=自分の物語ではなく、他者の物語としてでもなく、普遍的に存在する昔話的に、一般の物語として「語る」)ということが可能となる。

 こう考えれば、著作権問題は原理的にその行為と不具合を起す。

 もともと昔話に著作権が無いように、口承イメージで伝承される記事は、著作権を想定していないとして扱われても不思議ではない。

 また、以前にも考察したところだが、口承は伝え聞きであり、その言説(というか記事内容)に対する責任性をなかなか持ち得ない。その拡大がたとえ流言飛語になろうとも、伝承者一人ひとりは表に出てきにくい。

 これらのことを考えると、転載機能というのは筆記文芸とは根本的に相容れない性質のものであると考えることができる。

 ブログが筆記文芸の範疇である限り、転載機能はその立場と永久的に背反する性質を有するだろう。

 そうすれば、Y!ユーザーはY!の低コスト高交流ポリシーに反して何がしかの高いコストを支払わなければならないリスクを常に背負うことになりはしないか。

・・・

 ということで、転載機能議論に幾ばくかでも資すれば。

 あと、長々と書いてしまいましたが、どっかで激しく既出だったらごめんなさいね。(^^;

OYAJI氏の言葉に同意する。

 思うところあってここのところOYAJI氏と話をしていたんですが、とても興味深いご発言がありましたので、引用して私見を述べます。

ちなみに、私は「私の行動」についてあれこれ言ってくる議論には
何の興味も無いのですよ。むしろ時間の無駄。

率直な意見として、セールス氏はY!の商品価値を落としていないか? コメントより


 私はこれを「あなたは、私を裁けるのか? 裁く立場にあるのか?」と脳内変換しました。

 たしかに。

 私もそれを行った一人として、冷や水をかけられたような気分になりました。

 誰が誰を裁くというのでしょう?

 裁く側にはネットの正義があるとでも?

 思い上がるのも大概にしなさい、と言われそうです。

 ゆっくりと議論をする、対話をする。聞こえはいいが、そこに有るのはねちねちとした個人攻撃ではないのか? 何を変えたがっているのか? 変える必要があるのか?

 転載機能を否定し、それを駆使するものを封じ込めようとするなら、その「原理」は何なのだ?

 批判するなら徹底的に「機能」を批判していけばいいではないか。

 タバコがいけないから、タバコを吸う人間を否定していいのか? タバコを売るタバコ屋を批難していいのか? なんならタバコ屋を打ち壊しでもするか?

 OYAJIさんと話をしていて、私に向けられた彼の言葉はそういうことではないかと、思えるのです。

率直な意見として、セールス氏はY!の商品価値を落としていないか?

 (改訂版。追記があります。追記2もできました。追記3あり升。補遺出来。)

 ある商品のある機能があるとして、それをどう使うかという点で、セールストークを駆使しているひとがいるとする。

 その機能が素晴らしいなら口コミなりネットで広がるからセールスせずとも売れるかもしれない。

 しかし、当の買い手が説明を受けて「うーん、よくわからないなぁ」と首をかしげるような機能が、転載機能ではないだろうか。

 「なんか、世間の評判もいまひとつのようだし、事故も起こったって言うじゃない?」

 そこをなんとかしようとしてメリットを謳いあげることで「ぜひ楽しい機能にしましょうよ! 使い方は簡単だし、使い方を間違わなければ(<ん。矛盾してないか?)だいじょうぶです」と畳み掛けるセールス。

 買い手はそういう時、たとえば原野商法とかなんとか、危ない商売を連想するんじゃないかなぁ。

 とすると、この人のやっていることは、商品説明をして機能のメリットを強調することにより、そのサービスを提供する組織の評判を落としているのではないか?

 ま、これは比喩なんですけど、こうならなければいいな、というひとつの意見として。

 参考記事
もう一度、転載について(9)
危険性を知りながらもなお転載機能を使う理由について


 追記。

 早速上記参考記事へのTBが消されたみたい。(サイドバーとかTB履歴ページにはのこっているからいまだ結構参照されているけどね。)(<1月11日現在でエントリに表示回復。あー、めんどくせぇなぁ(苦笑))

 これから本編が始まるというところで物語が頓挫してしまった感があり残念なんだけど、これもまぁ仕方ないところでしょう。

 以下、別立てでエントリしようと思ったことなのですが、ここでもいいや。

 転載機能の是非についての議論について回るOYAJI氏は、いったいどんな立場なんだろうと改めて考えてみると、ただのユーザーなのです。しかし、あちこちにやってきては転載機能の「擁護」を言うとともに、その「正しい使い方」をレクチャーして回っている、いわばボランティア。いや、語源的に考えれば志願兵か。

 しかも転載機能を批判すればほぼ漏れなく付いてくる。

 そうすると、この人は「転載機能議論」のなかでは微妙な立場にいるわけです。議論の成り行きとして転載機能そのものを批判していても、いつの間にかそれがOYAJI氏を批判しているのか何なのか判らなくなってくる。

 しかも、このOYAJIという人は、議論が不利になると「あー、聞こえない、知らない、俺のせいじゃない」となるから、ますます厄介。こういう状況になるとどうしても「個人攻撃」になってしまうから、それを嫌うブロガーは対話を止めて行く。

 であるから、私としてはこの「転載問題にもれなく付いてくるOYAJI氏」と言う人の立場を相対化したいわけです。張り付いている関係を引き剥がして考えたい。そのためにセールスの比喩を使って見たんですが、見事に(とんでもない方向から)はぐらかされましたとさ。(^^)

 追記2

 OYAJIさん登場。(コメ欄)

 確かに理念は立派。しかし、それが内容を伴っていないと言う悲しい現実があるようです。いや、OYAJIさんにはOYAJIさんなりの行動基準があるようなんですが。さてと、どうなるか。

 もう一個、マイナーな追記ですが、OYAJIさんのやっていることを全否定することはないなぁと感じています。確かに有用なアドバイスはしていらっしゃいますし、それなりに固定客も付いている。ただね。なんかね。なんだろうね。

 もうひとつ。

 判ってきた。あの人の言葉は短時間のうちにほぼ間違いなくコンフリクトを起すんだ。それがデフォルトだとすると、そういうものであるとして対話できるが。

 追記3

 話しているうちに、ことのよしあしはどうあれ、OYAJIさんも努力はしているのだなぁと実感。ただ、現実はもっとつらいことも再認識。

 Y!ブログのユーザーブラックリスト(もしそんなものがあればだが)のなかに、もしかして[思想犯」とか「政治犯」的なカテゴリがあるんじゃないかと思い始めた。

 マイナーな追記。そしておそらくこれが最後の追記。

 どうやら転載批判が同時に「無意味にOYAJI憎し」になっていたのではないかと認識。切り分けているつもりでいたのだけれどね。かの人はかの人なりの考えがあってやっていることをどうこう言えるものではないということだろうか。

 議論は可能だが「馬に無理やり水を飲ませることはできない」という先人の言葉は正しいのかも。(<ここは訂正を余儀なくされた。議論はできない。このことは補遺にて)

 逆に、だからこそシステムそのものに向けての批判は継続しなくてはならないなぁと再認識。

 此処からは非常に個人的かつ趣味的な考察。

 「転載批判派」にとって「憂鬱」な気分になる時期がおそらく近日中にやってくる。今までの経過観察から、Y!が転載機能をこのベータ版ブログシステムの時点で撤回する可能性はほとんどない。撤回するには遅すぎるだけ十分に浸透してしまっている。もともとユーザー軽視の姿勢が鮮明に現れているのだから、実際にどこかで社会的な被害が出てマスコミに報道されるくらいでなければ、転載機能は停止しないだろう。そのときにはY!管理者側はぺこりと頭を下げて詫びを入れ、簡単に機能を外すに違いない。そして何事もなかったかのようにシステムは続いていくことだろう。

 唯一の救いはY!ユーザーの中でむやみに使わないような意識が勢いを増していることくらいだろう。そして、此処が一番大事なのだが、無規範な機能使用に対して用心深くいようという風潮を維持できる環境も整いつつあることかもしれない。

 個人攻撃から距離を置いたところから今後とも議論は続けられるのだから。

 ま、予見が外れればそれで好いんですけどね。

 補遺

 議論は不可能であるという認識に達しつつある。あの人はおそらく強固な信念を持っている。いや、信念といえば賞賛されうるものだが、そうではない。妄執か。何に対してか? 判ろうとは思わないし、それを指摘する権利もない。

 また、無意味と思われる現実に突き当たるであろうことは十分に予想しておいたほうがいいと思うが、ものごとの本当の動きがあるとすればそこからだろうという考えも持つにいたった。

 (ここにもうひとつ書き足しがあったんですが、頭に血が上っていたためと判断し、削除)

 (頭の血が腹に落ち着いたあたりで、脳内反省会議(<わかる人だけ判ってくれればいいです)がアップされていたので読んでみた。くすっと笑った。何やってんだろうなぁ、自分。て思った。今夜は酒が旨いと思う)

善意の原点と批判の方法

 いまさらの話題ですが、自分の中で一度は原点回帰したほうがいいと思い、エントリしました。

 アンサイクロペディアで「善意」というキーワードで検索をかけたところ該当項目が存在せず、ページ内本文と一致抽出結果でいろいろ出てきました。そこから最も関連性のあると思われる項目がこれ。

大きなお世話
大きなお世話(おおきなおせわ)とは、本人は善意で行ったのに周囲からは迷惑がられる行為のことである。小さな親切と一緒に使われることが多い。


 そう。批判する側もされる側も(する側は特に)忘れちゃいけない警告でしょう。(この引用元はクソ記事でも

 自分が大きなお世話をしているんじゃないかという怯えのようなものは常にあるし、だれも肯定してくれないかもという予感もつねにあるわけです。それでも批判するとして。

 じゃぁ何で批判するのか?

 これに対する答えはおそらくこういうことだと思います。

 まずは批判の基礎。

 社会はそれ自体が標榜している原則を実際に体現すべきだという規範は、ユートピア的です。というのも、道義的な原則というものは、ものごとの現実的な、そして今後も変わらぬありようと矛盾するからです。ものごとの現実的な、そして今後も変わらぬありようは、すべて悪であるとか、すべて善であるとかいうものではなく、どちらにも統一されない不完全、不整合、中途半端なものです。道義的な事柄をめぐって私たちが生きている培地は、矛盾のぬかるみのようなものですが、私たちはもろもろの原則に突き動かされてそれを何とかしようとするのです。原則に従えば、自分の行動を整理しよう、そして、道義的な放縦、妥協、臆病さ、さらには、気がかりな事柄から目を背けるのはやめよう、という気持ちになります。
(スーザン・ソンタグ 「良心の領界」 NTT出版 P163-164)



 なるほど、これが批判の原点になるわけです。この、いわば心情の土台の上に立って何事かを批判するのでしょうが、ものごとは(ソンタグが言うように)そう単純ではないとすれば、その批判に「正統性」(<便宜上こういう言葉を使います)を付与するのは何かということです。批判者はこの「正統性」をもって批判の矛先を定め、研ぎ澄まさなければなりますまい。

(実はソンタグはこのすぐあとで「反原則の立場」について重要なことを言っていると思うのですが、この段落の趣旨とは少し離れるのであとで引用します)

 ここで批判を抵抗と読み替えて、少し読み進んだところの引用を続けます。

抵抗もそれ自体では価値がありません。抵抗の真価、その道義的な必然性を決めるのは、その抵抗の中身です。(引用者注:下線は原文では傍点)

 中略

抵抗に本来的に優性な要素は何もありません。抵抗が正当なものか否かは、正義の名のもとに行動しているという、当の抵抗者たちの主張が正しいか否か、その前提をもって初めて成立するのです。ある主張が正当であるかどうか。それは、たとえ主張者が徳のある人だからといって、それだけで確証されるわけでも増強されるわけでもありません。ある事態が正真正銘、不正であり、必然的でない、とする場合、その見解にどれだけ真実が含まれているか、――― 主張の正当性は、徹頭徹尾、それによって決まってくるのです。
(同 P166)


 心情的に批判しても始まらないと。あくまでも冷静・冷徹に真実を見つけろと。そうしなければ批判は意味をなさないということです。

 昨今の転載批判で私は面白がって「チェーン行為撲滅原理主義者」を採用しましたが、なぜ「面白い」かというと、そういう立場の人を見るにつけ、こういった「正統性」を見つけるべくあらゆる努力をしているということがわかるからです。

 権利とか心情とか仕様とかそれに付随する行動規範をくねくねといじりまわして批判する・されるのではないところで、批判者はじわじわと問題を探り見つけ出し、それを提示するのですね。「さあ、これが真実だ」と提示するわけです。

 一方、そうではなく、現状の中で「できることをやる」という立場の人もいます。

 最初の引用文に続き、ソンタグが述べています。

ところが、その気にかかること、というのが問題です。つまり、自分の行為は正しくないと囁きかけながらも、だからこそそんなことで悩まないほうが得策だと忠告してくる、あの密やかな煩悶。
 反原則派の叫び―――「私はできるかぎりのことをしている」。もちろん、現状の中での「できるかぎりのこと」にすぎません。(引用者注:下線は原文では傍点)同 P164


 このように対比すれば、根本からの批判者(転載批判原理主義者)と現状の中で「できる限りのことをする」者との立場の相違が鮮明に見えてきます。

 そして、このような「(できるかぎりのことをすると叫ぶ)現状改革者」(<これも便宜上こう呼びます)にもさらにいくつかの型があるのですが、共通するのは根本からの批判者との原理的な確執です。根本からの批判者は現状改革者の足元をざくざく掘っているのですから、どのような点であれ確執が起こるのは必然的でしょう。

 冒頭の話(大きなお世話)に戻って、批判行為は「大きなお世話」である可能性が常に付きまとうとして、ソンタグの視線で批判するものにとっては、実はそれはどうでもいいことなのかもしれません。なぜなら批判者の興味は「真実はどこにあるのか」ですから、その掘り返した穴で上の建物が傾こうが人が穴に落ちようが、知ったことではないからです。

 いや、実は知っているんでしょうけど、どうにもできないのかな、と思えます。

 だから、間違った穴の掘り方をしてはいけない。このくらいの「良心」は批判者に必要でしょう。そうでないと「大きなお世話」ではなく「大いなる迷惑」になりかねません。

原理主義者で行くなら足を切る盗賊を非難する。

 いわゆる「善意の転載」をめぐる議論で、チェーンメール撲滅を主張する立場の人がいます。私も(行きがかり上かかわり始めたとはいえ)その一人。そういう立場の人に「チェーン記事撲滅原理主義者」というレッテルが貼られたようで。

 初出は The realist is still dreaming.
 採用は Yahoo!ブログの転載問題:チェーン記事撲滅原理主義者の主張

 やはりこういうくくりをするのが好きな人っているんですねぇ。こうやってカテゴライズすれば確かに便利なんだろうけど、その一方で弊害は必ずあるわけで。

 それは何かというと、「原理主義者」には「何を言っても無駄だから」、「相手にしなくていい」という考え。議論の行き詰まりを迎えた局面では大概出てくる考え方です。

 さて、年頭の挨拶はさておき、転載機能そのものについてそのメリットはないだろうかという考察があります。

転載機能に'使いどころ'はあるか?-1

 議論のなかで「チェーンメール」関連の考察は次回以降ということで、今回はその土台となる機能そのもののメリットを探る趣旨。

 本文中にも触れられていますが、大概は「代替可能」か「ある条件内で有効(かも)」というレベルのようです。なかなか考えられていて興味深いです。

 感想として、実際にそのブログシステムを使っていない立場の者からしてみればこういう議論は procrustean ( 無理に規準に合わせようとする・無理に型にはめようとする 形容詞 英語)であるなぁと感じます。

 procrusteanの語源はギリシャ神話に出てくるProcrustesという盗賊が旅人を捕まえベッドに寝かし、ベッドより大きければ足を切りベッドより小さければ引き伸ばして殺すというお話。

 そこにあるのは、「(その機能はだいぶよろしくない機能であるがそれでも)機能があるからそれをいかに使うか」というものなんじゃないかなぁ。使用者を機能に合わせるというか、数少ない「こういう使い方をするといいですよ」という使用ガイドラインに沿った使い方を使用者に無理やり提案するというか。

 こうするとユーザーはそれにそった使い方「のみ」をするかという疑問が出てくる。

 そんなわけはない、と「原理主義者」は考えるのですよ。

 強制力のないガイドラインなど気にせずに使うケースは十分考えられます。というか、その使用方法に関する感覚をはぐくむ前に自分の思うように使ってしまうのが当たり前でしょう。

 それで「ガイドライン」遵守を呼びかけようとする。

 やや。これはさるお人が散々やってきたことではないですか。

 ガイドラインA が ガイドラインB に置き換わっても、それが procrustean である限り、型にはまらない問題が発生することはいくらでも想定できるでしょう。

 ですから、一原理主義者としてはこう思います。

 「その機能をなくせ。代替機能はもう十分ある」と。

 真の原因は「機能そのもの」だと。

 もしそう考えなければ、機能を残し、その機能を使用するレクチャーを何回も実施し、使っていい場合と使ってはいけない場合を判別できて問題のある使い方をしないような「倫理」をユーザーのなかに育む作業が必要となってくるのではないでしょうか。

 もし使用ガイドライン遵守を徹底したいなら、それこそ(猟銃所持許可のような)免許制にでもするか?

 そんなコストをかけてまでやることであるのか?

 そういう疑問がふつふつと沸いて出てきます。

「テオドール転載」 こちらがわの後日譚

 前回のエントリ 「テオドール転載」について思う を書いてみて思ったこと。

立ち位置

 まず、なぜあのエントリを批判したかという点。事情があり個人の想いで「テオドール」に対して注意を呼びかけるという行動自体は、私のなかで特に問題ではありませんでした。仮にあのエントリが普通のブログで普通に書かれていたことなら、頭の中にいくつかの疑問点が浮かび上がったにせよ、それをもとにエントリを立てる行動はしなかったと思います(たぶん、コメントでいくつかご指摘させていただくにとどめたでしょう)。

 ではなぜ批判エントリを立てたかというと、それが「転載を推奨していた」から。この一点で、行動に出ました。

 しかし、それはかの人物(<OYAJI)が関わっていたからではありません。

批判の私的基準

 転載を推奨した時点で、そのエントリは単なる「個人ブログにおける個人の言説」ではなくなっていると考えたからです。もっと公の性質を帯びるものとなると考えたからです。

 具体的には、「情報ソースが古い」、「根拠が乏しい」、「主張が社会的影響を帯びる」という点で批判するべきものがあった。これが、個人のブログエントリと「おおやけの言説」どちらに近いかという点で、私は「おおやけ」になる、と判断し、その点を閾値として批判という行動に出たということです。

 このような「転載推奨は個が公となる行為であるから、遠慮なく批判する」というのは、私が勝手に作り上げた基準に過ぎません。御批判はいくらでもお受けします。

 しかし、上記のような考え方をしないと、「テオドール転載推奨」への疑義発声が難しいというのもまた事実です。

 個人のご事情があり、その苦しい状況のなかで想いをつづられていることに土足で踏み込むことを抑えようとされる人の気持ちは良くわかります。そして、それにかんがみて批判を控えようという考えも理解できます。

 しかし、その「個人の想い」が「転載を推奨」し、無批判なまま次々と複製されていく過程は、見過ごすことができません。

 なぜなら、その「個人の想い」とそれを背景にして理論立てたエントリの中に何らかの間違いがあれば、その間違いが「転載推奨」により、強力に増幅されると思えるからです。そしてそれは転載が続く限り修正されることなく増幅され続けます。

 これはもはや「個人の言説」とは遠く離れた大きな影響力を持ちうる出来事です。

転載推奨のメッセージ性

 「転載をお願いする」行為は、「必ず」メッセージ性を持ちます。その意図が良い・悪いは関係ありません。純粋に、「メッセージ」として発信されます。

 そのメッセージは、完全に正しいことはありえないでしょう。また、立場が違うだけで、あるメッセージがある人にとっては暴力や凶器となりうるのは、予想できます。

 仮に、いったん転載が始まれば、そのメッセージに含まれる暴力性や過ちは修正しにくくなります。

 この点は、マスメディアの報道被害にも似ています。

 転載推奨は、その「マスメディアの暴力性」に通じる危険が潜んでいると考えます。しかも、その「あやまち」は、マスメディアが慎重に(と思えないところもありますがともかく慎重に)情報を発信する場合と違い、個人が個人として考えて行う分、過誤や偏向が含まれやすくなります。

 つまり、「転載推奨行為」はその発生源から拡散先まで、考えが修正されず、個人の責任範囲をはるかに超えた「過誤」が増幅される必然を含んでいると思えるのです。

 そしてまた、それは「個人」から発せられるがゆえ、「個人」の責任を問われた場合、全責任を負うことが不可能な状況になりえます。

転載推奨はとても厳しい批判にさらされる

 このように考えると、ネットの中で転載推奨行為が連鎖していく可能性により、その言説(発端となった言説)は、きわめて厳しい批判にさらされる可能性が出てきます。

 転載機能を持つブログサービスでは、気に入った記事を転載することが常態となっているようです。そして、あるメッセージを発信したい人が簡単に転載を呼びかけることも可能です。
 一方、ネットに慣れていない人ほど、メッセージを十分練った形で作ることが上手ではなく、簡単に批判にさらされるケースが目立つと考えています。

 この、メッセージの欲望・希望と言説組み立ての未熟さが融合したとき、影響力のある「転載推奨行為」が生まれます。

 そして、メッセージは事前に批判を受けることなく、いわば「未熟児」の状態で拡散して、やがて暴力へといたる可能性が出てきます。

 その影響が大きければ大きいだけ、帰ってくる批判も大きいと覚悟しなくてはなりませんが、ことのはじめにそのような危機感覚が薄いケースが多いようです。

転載推奨行為はやめたほうがいい。

 こうしてみてくると、転載推奨行為は絶対にやめたほうがいい行為です。簡単に行えて賛同者もどんどん現れてなんだかうれしくなる機能かもしれませんが、一旦ことが起こった場合に(いや、起こらなくとも転載推奨行為をするというだけで)厳しい批判にさらされる可能性が高いものです。

 転載推奨行為はコストが低いようで、実はものすごく高くつく行為ではないかと思えます。

 中にはそのサービスシステムを恣意的に自由に扱い、変幻自在の人物もいます。これはまぁ、そのシステムに巣食うだけの人物なので、ここでは慮外とします。

 以上が、今の時点で私の考えるところです。

TBさき ブログより大切なもの-II (当方のエントリ発端となったゆえ)

「テオドール転載」について思う

 過去にテオフィリンという薬物がいくつかの副作用を引き起こし、それに関連するということで新たな「転載」が始まっていました。

 私は転載行為自体に批判的なのですが、同時に、ひとつのエントリとしての「テオフィリン(テオドール)とソース記事転用および転載推奨に関する記事内容」にいくつかの疑問点があるため、エントリを立てました。

 これを知ったのは:

「善意の転載」と「チェーン日記」に絞るよ ekken♂
のコメント欄から。

 ぜんそく薬「テオフィリン」、乳幼児の使用制限へ
 Yomiuri online
からがソースだと思います。

 これをもとにして「テオドール」の副作用を「知らせる」ための転載が広がっている模様。

 ソース記事は2005年11月18日で一年以上前のもの。

 これは今の時点で医療関係者が何も改善していなければ確かに問題であろうと思うのですが、記事でもすでに書かれているとおり、問題点があったとして関係団体が調査し使用ガイドラインを作り上げています。

 調べたところすでに公式なガイドラインが通達されています。

医薬品・医療機器等安全性情報
Pharmaceuticals and Medical Devices
Safety Information No.221

平成18年(2006年)1月 厚生労働省医薬食品局

4.まとめ
 製造販売業者からテオフィリン等の使用後に発現したとして報告された小児におけるけいれんの副作用事例を検討すると,ガイドラインの不遵守,発熱時の投与などが多く見られている。小児気管支喘息へのテオフィリン等の使用については,ガイドライン等を参考に,患者の状態等をよく観察し,特に乳幼児の場合には投与を慎重に検討するとともに,投与に際しては臨床症状等の観察や血中濃度のモニタリングを行うなど慎重な投与をお願いする。



 こういう副作用情報やガイドライン告知は医療機関に対して通常は速やかに行われるもので、一年以上経過した段階ではほとんどの医療従事者が知っている・知っていなければならない情報であると思えます。

 さて、冒頭の転載文なのですが、どうやら作成者が記事もとの読売新聞社と交渉し条件付ながら掲載を認められたようなのですが、疑問点がいくつか。

 ひとつは、確かに副作用かもしれないと思われる出来事にあわれた転載もと記事作成者の方には同情申し上げますが、(<この記述は削除。理由は■記事転載にひそむもうひとつの危険性の指摘を見つけたため。たしかに誤解するよなぁ)今の時点でなぜ「転載」によりその情報を広める必要があったのか。前述のように厚生労働省から通知が医療関係者に出ている状況を考えると、情報自体はすでに陳腐化しているため、医療機関と患者との間に無用な不安を生み出すだけではないのか。

 この点について記述しているエントリとしては、滝川クリスタルさんのエントリ「「善意の転載」・新たなる転載を起こす天災・災禍」が充実していると思いますので参考までに表記。

 もうひとつは、読売側の「記事使用条件」が具体的にどのようなもので、どこまで制限され、どこまでがして良い行動なのか明示されていないため、「転載」についての恣意的判断の余地が大きいと思われること。

 上記の段落に追記。
 【ご報告】読売さんから返事が来ました!
 ここのコメント欄によると読売記事本体の丸ごと転載は不可、引用も不可、同記事のURLを表記し、読者をそこに誘導するケースなら可。というものでした。個人がブログにエントリするレベルでなら、という条件付で考えた場合は妥当といえば妥当なんですが、果たしてこれを「無限転載」前提での許可と見ていいのかも疑問。

 また、読売が自社記事へのURL誘導をもって「お役に立てるならば」というのは、転載推奨記事に対して好意的な表現ととらえるべきかどうか。大新聞がそういう形で個人にコミットするかなぁという点も大いに疑問です。

 さらに追記。

 一日経って同エントリを見たら、「必要な方は転載してください」という表記が「騒動に巻き込まれそうなのでいったん転載不可にします」という表現に変わっていました。さてさて、そんな感じで「本当に世に知らしめるべきと考えている情報を転載させたいのか?」という疑問が湧き上がりました。同一エントリの骨子を変えてしまうのは言説としてもどうかと思う。

 ついでを言えば、「テオドール」は商品名で三菱ウェルファーマが製造していますが、ほかにもテオフィリンを用いた医療用医薬品が10以上、一般のドラッグストアで買える一般用医薬品が4種類出ています。これらはすべて新しいガイドラインに沿って注意書きが作られて用いられていると思われます。こういった商品への影響も大きいのではないかと思えます。

 このようなことへの影響という点で、明確な実証を経ないまま転載が促された感があります。

 ちなみにソースとなった読売新聞の記事の日付は2005年11月18日、厚生労働省のガイドラインに沿った適正な使用の呼びかけは平成18年(2006年)1月ですから、あまり遅いとはいえない時間差で対策がとられています

 これらがとても疑問なのです。

 なぜ、いま、この記事を使って転載推奨なのか?

 もうひとつの転載騒ぎにかすんでしまっている感もあるのですが気になります。

 もうひとつ追記。

 記事発信元で該当記事に関する「お詫び」と転載先への記事削除要請がありました。

 【お詫びとお願い】

 直前にもうひとつ私個人としては重要と思われるエントリがあったんですが、それは削除されています。

 # 振り回されておるなぁ。ぷんすか。あとで考察エントリを立てよう。

leased territories

 タイトルの訳は租借地。

租借地 wikipedia

租借地(そしゃくち)とは、ある国が条約で一定期間、他国に貸し与えた土地のこと。具体的には、日清戦争後、英仏独露のヨーロッパ列強が、清国を脅迫し、沿岸の要地を租借したのが嚆矢であり、帝国主義列強による勢力均衡の賜物である。

租借期間中は、貸した国には潜在的な主権が存在するが、実質的な統治権は借りた国が持ち、準領土となる。立法・行政・司法権は借りた国に移る。


 ブログも一種の租借地ではなかろうかと思い立ったのです。ユーザーはシステムの利用規約に同意してブログを始めることで実質的なブログの統治者となりますし、その中でのルール(ローカルルール・オレルールなどバラエティに富んでいる)を打ち立てて、その上で立法・行政・司法を一手に掌握しています。

 ブログ主とそこに出入りする人たちにより個々のブログは一種の自治空間として機能し、その形態はブログ主の考え方により千差万別なものとなりますね。その千差万別の中にも類型が見られます。独裁的に異見を排除するブログとか、うなずき合いが著しいブログとか、普通にエントリを立てて普通に読まれているとか。

 個々のブログがおのおの無関係に発生し消滅していくだけならややこしくはないのですが、相関しあってブログ圏というなにやらスマートな言葉で述べられるような集合ができると、今度はそこに「国際法」的なルールが形成されてくるようです。

 そこで厄介なのはその「国際法」は不幸なことに個々のブログ主にとって「主権」じゃないと考えられることでしょう。守るべきかもしれないが、特に強制力のないものであり、まぁ気にしなくてもなんともないような感じ。例えるなら今の日本国憲法みたいなものかも。(<いいのかな。汗)

 そして、一部のブログ主はローカルルールを「国際法」と思い込んでいたりするようです。カギカッコつきで表記したのは、そのローカルルールを「ほかのブログ主すべてが絶対必ず守らなければならないものなのである」という解釈をするようなので。つまり「自分」がブログ圏の主権者なんであると考えるようなのですね。

 これはちがうでしょう。「あなたが私たちの主権者かい?」と。

 本当の主権者はだれかというと、ブログシステムを運営しているサービスシステムですね。「潜在的に主権を持つ」ということは、それがいつ顕在化するかはひとえに主権者に任されます。

 システムにもいろいろあって、なるべく表に出てこないように振舞うところからことあるごとに主権を用いるところまで幅があるようです。

 私たちにとって救いなのは、一応、「国際法」と言うべきものが出来上がっていることです。それを知り行動している限りは大過なくすごせます。意見の主張もできるし活発な論戦もできるし、国際法が存在する限りは自由に振舞えます。

 しかし、真の主権者であるシステムがひとつ、特別な機能を持つサービスを始め、それがその租借地内で用いられているというのを最近、その租借地内に住む知人から聞かされました。

 結構難しいサービスで、その租借地内では不具合も報告されているようです。さらにその不具合に応じて主権者の恣意が結構働いているらしい。私はそこに住んでいるわけではないですから伝聞にしか過ぎないので断言できず残念ですが。

 なかなか不自由な租借地のようです。

 願わくば他の租借地に件の租借地で主権者が行う主権行使方法と新サービスが広がらないことを。

 国際法を支持するものとしてはそう思わずにいられません。

考察の実証の考察

 今まで転載機能をウェットな(心情的・ユーザー心理的な)面から見てきたんですが、当然ながらそのシステムの内側の住人と外側の住人では立場も見方も変わりうるわけです。そこを考えると、私のような「外側の存在」から転載機能に関して言えることは、そのシステム管理者とそのユーザーに対して

 それはネットの中ではマナー違反となるからやめたほうがいい

 くらいの意見提示しかできないですねぇ。それにはたと気がついてから、「善意の転載問題」当事者の人を個人的に批判するのはあんまり意味がないんじゃないかと思えて、私は批判をやめました。あまり突っ込むと人格攻撃以上のものは行えないと。

 ただし、その行為の本質を考えて問題点を抽出し、それに対して批判的な思考を働かせるという態度は、今後も絶対必要ではないかと思えます。そうでなければ結局のところ私たちが利用しているネットの中で企業論理やルールの恣意的解釈ばかりが幅を利かせ、それによりネットの中で育ってきた大切な常識やルールが死んでいく。となると、「ほしいまま・勝手」な行為を「自由」と履き違える結果になり、結果として私たちが享受している「ネットでの自由」そのものが崩壊するのでしょう。

 「善意の転載問題」当事者への批判は、その意味で重要だと思います。

 これは、何も私たちが「社会的正義」を振りかざして「不道徳」を排撃しているわけではないのでしょう。

 私たちが今後もネットの中で自由でいられるために必要な行動

 です。

 その意味において、今回の件でその点を考え問題を取り上げた方には敬意を表しますし、転載問題の当事者となる方にも、早くそれに気づいていただきたい、と思いますね。

 …にしても。

 「転載機能」は何とかならんもんかなぁ。ニーズとウォンツの履き違えというケースの典型と思える。

 ま、各人が気をつける以外ないのは確かだが、それはあくまで「ネットの自由」を守るためだ、ということを、一人でも多くの方に知ってもらえたらなぁ。

 追記。

 転載機能の機能不全はとどまるところを知らないかのようですねぇ。資料としてメモしておきます。

 転載記事の画像すり替え手法について

 これもただ単に転載をぽつぽつやっているだけならそんなにたいした被害も起こらないんじゃないかと思う。「大量に転載させて行く」ことでテロ効果は上がる。

 ということは、「転載推奨行為」はテロ行為のための手段であり、テロ発生の根源は「転載機能」そのものである。

 機能は価値中立であるという考えがまたまた危うくなってきたような気が。

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