みんなのてき
確かに軽率かつ不愉快とも取れる発言であった。それは認めるにしても。
野党側の福島氏とかをはじめとする女性議員のパフォーマンスには辟易していた。ここぞとばかり「女性」を持ち出している感じがして。あのひとなんか発言趣旨が「そーり。そーり」から「大臣、大臣」に変わっただけで。
そんななかで大臣辞任の動きが加速した。
「産む機械」発言の厚労相、与党にも辞任論 YOMIURI ONLINE
これはまぁ参院選を睨んだパフォーマンス的なところもある。だからこれをもって野党批判陣営が「それみろ、与党内からも批難の声が上がっているんだ」と言ったら、それは間抜けな話だ。
厚労大臣の辞任が現実になったとして、だから「ふん。私たちが正しかったのよ」的に鼻の穴を膨らませてたら、笑いものになると思ったほうがいい。
今度の「女性は産む機械」ということにしたって、確かに表現は悪かったけれど「そういう機能を持つ人口に限りがある」って言うのが趣旨でしょ? マクロな視野から見たシステムな話でしょ?
それを、なんだか「出産したくてもできない人もいる!」的な話に問題を持っていくのはどうなんだろう。そう思いませんか、村田蓮舫さん。
まぁ、そういう小粒な議論はそこまでにして。
失言一発で大臣の地位を追われるというのは、決していいことではないと思う。女性蔑視というか人間蔑視を明確にした言説を繰り返しているなら別だ。それなら、そういう議員に国政を付託した私たちも反省しなくちゃいけないし、安倍さんの任命責任だって当然問われる。
しかし、当の本人の議論を切り離したような形で言葉が独り歩きをし、政策とぜんぜん関係ないところで辞任要求を出す手法は、卑怯だと思うし、言ってみれば倫理的な絶対安全圏に自分を置いて他者をこき下ろして行く図になる。
民衆の「感情」や「倫理観」といったものを代弁して政権を引きずり回すことが民主主義というやつなのか。
しかも、その倫理観や感情により形成されたものは、一時の感情以上に永続的な価値を持つ思想になりえるのか。
そういう、感情やセンチメンタルな倫理観を元に築き上げられた政治の元、私たち国民は暮らさなければならないのか。
考えようによっては恐ろしい状況だといえる。「女性の敵」とみなされれば、三角帽子を被らされ、さらし者にされた挙句抹殺されることになりかねない。
その「女性の敵」が、立場と状況により「動物の敵」、「子供の敵」、「老人の敵」そして「みんなの敵」へと変わっていく段階に、歯止めがないんじゃないか。
やっぱりこういう批判の仕方っておかしい。
こういう論法でいくと、次の「敵」はあなたであり、私でもある。
偏見と理性の再考
引用の順番が前後しますが、論旨によるものです。ご容赦ください。
まず、私の問いかけに対してお答えいただき、ありがとうございました。
理由はシンプルです。私は「人は生まれによる貴賤はなく、その人のなしたことだけがその人を評価する基準になる」という価値観を有しています。他方、天皇制は戦後の象徴天皇制も含めて、天皇家に生を受けたということだけを理由に他の国民と異なった取り扱いをしています。このような価値観は私の価値観と相容れないものですから、そのような制度を公的なものとして取り扱うことに反対です(当人が納得している分には私的なものとして取り扱うことには異論はありません)。従って、君が代という天皇の長寿を願う歌(君が代の「君」が天皇を表すというのは国旗国歌法制定時の政府の公式見解でした)を歌う気にもなりません。それは私の価値観に抵触するからです。
青龍さまのお考えは良くわかりました。かといって、そのことに同意するかどうかはまた別問題となりますが。
私が判らないと言ったのは、去年のある事件に関して、もちろん青龍さまとは関係ない話なのですが、同じように天皇制を否定する輩がいるため、今現在のこの話と整合性をつけたかったからです。
週間金曜日のお粗末劇
こういう唾棄すべき輩の行動に、非常な疑問を持っています。この件に関する私なりの考えは次のエントリで示しました。
皇室中傷劇 解題
上記エントリでも述べていますが、彼らは「人権」を盛んに強調します。しかし、こと天皇のこととなると、平気で「人権」を踏み越えた行為を行います。天皇とて、その行為やお立場に法的制約はあるにせよ、ひとつの人権を持つお方ではありませんか。皇室ご一家とて同じではありませんか。それが、これだけの中傷行為を平然と行うのなら、彼らの言う人権とは何であるのか、という点で批判をしています。
青龍さまはみなひとしなみに平等であるという考えをお持ちですから、その点では彼らとの相違が明らかになりました。
また国旗国歌については前回述べたことの繰り返しになりますが、イデオロギー性を意識しないことはイデオロギー性がないことにはならないという点に尽きます。G.R.さんのレトリックは、国民の多くが初詣の宗教性を意識していなければ、初詣が宗教行為ではないことになるといっているのと同様に論理の飛躍があります。
国政と宗教が統合されている場合はそういえるかもしれません。しかし、前者は国民の付託を受けた統治機構であるのに対し、後者は個人の信仰であり、青龍さまが仰るような並列の議論はできません。もちろん、国が特定の宗教を個人に強制するということは、さまざまな問題があるでしょう。これは非常に微妙な問題を含んでいると思います。しかし、国民の付託を受けた政府があり、その政府を有する国が象徴として今の国旗・国歌を定めることが、そのままそういった議論になることも難しいのではないでしょうか。
天皇は(過去の歴史はどうあれ)現在は象徴としての存在であり、私としてはその象徴としての天皇を否定するべき理由がありません。これを「無自覚」であると指摘しておられるのでしょうが、自覚的に象徴と認めるということ自体すべて否定されなくてはならないことなのでしょうか。
ここでも、理性に対する言いがかりに近い非難がなされていませんか。特にG.R.さんの定義する「伝統」がまさに合理主義の帰結であることを考え合わせれば、G.R.さんの理性批判はまさに自己撞着に陥っているといえます。
ここは青龍さまの理解と全く違います。
保守主義では、国を統治するのおいて個人の理性、個人の考えはとてもか細いもの、射程距離の短いものである、という認識を持つと思います。しかし、それは個人の理性そのものを否定しているわけでは有りません。国という存在があり、過去から現在へ連綿と続いている歴史のなかで培われたわれわれの祖先が残した知恵は、私たち一人ひとりが一代限りで考えうる理性による思惟よりはるかに大きいと考えます。
一方社会主義に代表される思想は、当代の人間が考えて作り上げた社会設計のもとに運営されるものであり、その背景には人間の理性への無限の信頼が前提されています。この点が危ういものであるという考えが、保守の思想にはあると思います。
国というものを考える点で、私と青龍さまは、その点で根本的に思想が違っていると言えます。これは個人レベルではどちらが良い悪いと決着できるものではないと考えます。
また、理性至上主義(こんなものが本当に存在するのか疑問ですが)に社会主義の失敗の責を全面的に押し付けるのも論理の飛躍があります。この論法を使うのなら、「伝統」に執着した大日本帝国の失敗は一体何にその責任を押し付けるのですか?
社会主義の失敗は人間がその限られた理性(理性信仰といっても良いでしょうが)により作り上げた計画経済の失敗そのものでしょう。また、社会主義国に蔓延した政治的腐敗が一因でしょう。社会主義国が収容所群島などと呼ばれた時代です。
一方の大日本帝国の失敗は、世界の趨勢がそうであった時代に、各国列強と肩を並べるため帝国主義を行い、その結果軍部の独走を許し彼らの戦術的思慮のなさから来た無謀な政治戦略の帰結だと思えます。実際に第二次世界大戦においても上層部は独走しましたし、軍内部にはその戦略性の無さを嘆く声も多かったのではないでしょうか。
「伝統」を「社会を維持する知恵」と定義するのであれば、それはまさに合理主義ではないですか。すなわち、この場合の「伝統」は、過去にその「伝統」に従うことによって社会が維持されてきたから現在においてもその「伝統」に従うことによって社会がよりよく維持できるだろうという推論がその正当性を支えることになります。
この点は保守主義の考え方からすれば、青龍さまの認識が私と違うとしかいえないかもしれません。
G.R.さんの言う保守主義も「伝統」を無条件に維持しようとするものではないでしょう。「劇的な改変をなるべくしないように考える」ということは裏を返せば、劇的でない改変を否定するものでもないし、劇的な改変であっても必要性があれば認めるということです。
これは、まだ考え方に相違があります。日本ではなく世界に目を向けてみると、保守主義は伝統を伴う「国体をそのまま維持」しようという思想です。一方、社会主義はその伝統を伴う「国体を完全に否定」するところが出発点となるイデオロギーであろうと思います。
伝統のイデオロギー性 思想の対比
まず、大変長い間お返事ができなかったことをお詫び申し上げます。しかしその間にも興味深いことがいくつかあり、いろいろと考えてはおりました。
さて、本論ですが。
青龍の雑文Blog はてな別館 「伝統」のイデオロギー性3より引用
そして、「伝統」はその時々で、社会の変化や価値観の変化に応じて、改変されていくものであり、その改変の際には「伝統」が有するイデオロギーと改変を要求するイデオロギーを比較・選択することになるのです。この点は、保守思想の内部での改革と、異なるイデオロギーに基づく改革で変わりないのです。しかるに、G.R.さんからすると、両者は異質なものと評価され、前者は肯定的に評価されるのに対して後者は否定的に評価されるのです。
青龍さまのお考えでは、あるイデオロギーが「伝統」をどう扱うか、という視点が見えてきません。
具体的に言いますと、保守主義的視点は「伝統」(いちおうこういう呼び方で続けますが、あとで整理します)を保守し、劇的な改変をなるべくしないように考えると思います。
一方改革を考えるイデオロギーでは、そういった「伝統」を非合理的なものとみなし、自らのイデオロギーが拠って立つ所の理性を用いて社会を運営しようと考えます。この点でこのイデオロギーは「伝統」を否定します。
ここで、「伝統」という言葉の確認ですが、私は、その社会が過去から営々と築き上げてきた社会の中で自然発生的に形成されてきた、社会を維持する知恵という意味で用います。これがバークの言う「法の支配」であり、「コモン・ロー」ということになろうかと思います。また、チェスタトンが言うところの「墓石にも投票権がある」ということでしょう。(この点でチェスタトンの言い回しは独特なので、多くの説明が必要かもしれませんが、今は示すにとどめます)
歴史を紐解いてみれば解りますが、士農工商のような階級制も、四民平等も到底自然発生的なものではなく、その時々の政治権力がその目的達成のために定めたものにすぎません。江戸幕府も明治政府も過去の統治機構を武力で倒すことによって成立したものです。国旗国歌についても、そもそもそんなものは明治以前の日本には存在していませんし、国旗を掲揚し国歌を歌うことが国民統合のの手段となり得るという考え方も、国民国家成立以前には存在していないのです。
以上の例を見れば、これらが自然発生的なものであるというのは間違いであることははっきりしています。どれも、その時々の政治権力がその目的を達成するためにあなたの言う「浅薄な人間の理性・知性」により作り変え・または作り出したものなのです。
もちろん、社会に存在する価値観の中には自然発生的に形成されていったものが存在すること自体は否定しません。しかし、あなたの言う保守思想は人為的なものまでしかも選択的に「伝統」の中に放り込んでいる点で問題があると思います。
士農工商も明治維新も歴史的ダイナミズムの「中」のことであり、保守主義イデオロギーも革命主義(社会主義)政治イデオロギーもそのことどもを「扱う」立場になると思います。
具体的に言えば国旗国歌の成立も、明治政府が外国と比肩する為に国家としての日本に必要であるとして定めたものであり、考え方としてみればそれ以上のものでも以下でも有りません。ただ、それをイデオロギーとして扱う勢力があるというだけです。また、現在の日本国民の「多く」はそういう政治イデオロギーに与せず、自らの国の「象徴」として現在の国旗国歌を認めているという意味で、イデオロギー性は殆どないか、薄いと思います。
ただし、その象徴としての国旗国歌でさえ否定するある範囲のイデオロギーへの「カウンター」として何がしかの行動をしなくてはならないという現状があるのではないでしょうか。
繰り返して確認しますが、私の立場としては、国の伝統や象徴は、基本的にイデオロギー性は薄いと考えております。
フランス革命で行われたことはアンシャン・レジームの破壊であったと思いますが、それは同時にその当時隆盛していた啓蒙主義に基づき、「理性により社会を創造し統治する」という理性主義が発生した契機でもあったと思えます。
人の理性がその世代において社会を構築するという理性至上主義(中川八洋氏は理神教と呼んでいますが)が社会主義を胚胎させ、やがてソビエト連邦などの社会主義国家が形成されましたが、それらはすべて計画経済の名のもとに、理性により社会を維持しようとしました。これが大きな間違いであったということは歴史が証明したのではないかと思います。保守主義はその理性主義を否定する思想として生まれたという面があると思います。
さて、ここでひとつ判らないので改めてお伺いしたいのですが、青龍さまはなぜ国旗国歌の「押し付け」という表現をなさるのでしょう。青龍さまの立場からのお考えが、いまひとつはっきりとわかりません。こちらの理解力不足という点もあるかと思うのですが、ぜひ根本的なお考えをお示しいただきたいと思います。
なかなか難しいお話が続き、こちらも悪戦苦闘してエントリしております。自身の勉強不足の感は否めませんし、内容の不備な点お笑いになられているかとも思いますが、どうかご容赦を。
伝統と理念とイデオロギー
「伝統」というものを選択すること自体も一つの価値判断であり、イデオロギー性を持っているという当たり前の認識が欠けていることです。それゆえ、イデオロギーを持っているのは「伝統」という自分たちの選択に反対する人たちだけだという一方的な論理になるのではないかと思うのです。
「伝統」のイデオロギー性2 青龍の雑文Blog はてな別館
伝統をイデオロギーとしてしまうという点で間違っていると思いますし、そこからさまざまな齟齬が生まれてくると思います。以下、その点について考えます。
まず、人は出自により「伝統」を選べません。ややこしい言い方ですが、人は生れ落ちたと同時にその社会の伝統の中に放り込まれます。後天的に、ある伝統と別の伝統を比較して「こちらの伝統を選択する」ということも「理性的には」可能でしょうが、その社会の中に生活する感覚として、または感性として生まれたときから組み込まれる伝統を選ぶことはできません。
その点を考え、保守思想は「国の成り立ちから現在に至るまで形成されてきたその社会のさまざまな知恵、慣習、階級、統治機構は自然発生的なもので、それは人智を超えた(<少し誤解されるかも)精妙なものであるから、浅薄な人間の理性・知性により作り変えられるものではない」という立場をとります。
もちろんその過程で過ちやいき過ぎという負の面も出てきますが、それをもってその社会すべてが悪いとはせず、漸進的に改革していこうというのがスタンスとなります。この時点で国家の聖別というような考えも起こりますが、それはまた別として。
私が以前のエントリで:
人間、理性だけで生きているわけじゃない。感情があり、偏見を持ち、不可思議な領域を信じたがる不合理な生き物なわけです。国、国家、故郷といったものに対し、不合理だけれども自分の生まれ育った場所として愛着を持つわけです。
偏見と理性と感性
と書いた理由はそこにあります。
ただし、保守思想が絶対にイデオロギーでないかというと、それも違います。上記立場を踏まえ、その立場を崩そうとする考え方へのカウンター・イデオロギーとして成り立ちえます。しかしそれはその国の保守的に伝統を重んじる生活をしている人々すべてが持つものとしてのイデオロギーというところまで考え方を広げるのは誤りです。
青龍さんはこう仰っています:
人間の歴史を見れば、変化のない社会が存在しない以上、その時代ごとで、過去の「伝統」と呼ばれるものの一部を変更し・排除してきたのです。そしてその変更排除は必ずしも全員の合意の下で漸進的に行われてきた訳ではなく、その時代ごとに多数派によって選択されてきたものです。その意味でフランスにおいても王政と教会の権力というアンシャンレジームの下での「伝統」を否定した、自由・平等・博愛の「伝統」というものも存在するのです。
後者の「伝統」はあいまいであり、誤りです。正確には「思想」です。そしてイデオロギーです。
イデオロギーの定義を引いて見ます:
イデオロギーは世界観である。しかしイデオロギーは開かれた世界観であり、対立的な世界観の一部を取り込んでいることがある。イデオロギーは何らかの政治的主張を含み、社会的な利害に動機づけられており、特定の社会集団や社会階級に固有の観念である。にも関わらずイデオロギーは主張を正当化するために自己をしばしば普遍化したりする。またほかのイデオロギーに迎合したり、それを従属させたりする。イデオロギーは極めて政治的である。
中略
ある政治理念がイデオロギーであるかそうでないかは多くの場合、理念の内容それ自体よりもその理念が拡大しようとしている立場やその理念の社会状況に対する評価の仕方によって判断される。大抵の政治理念はイデオロギーになりうる。
中略
イデオロギーは表面上中立的な政治理念を装ってることがあるが、実際は政治理念それ自体とは別個に隠蔽された政治目的を持っていることがある。イデオロギーは政治理念と政治目的が何らかの形において結合したものということができる。中立的な政治理念とイデオロギーはこの限りにおいて明確に区別される。また何がイデオロギーか何がイデオロギーでないかは立場や時代状況により一定ではない。
wikipedia イデオロギー
こうしてわかるように、政治理念とイデオロギーは似ているようで違います。
もう一度国歌・国旗の問題を振り返ってみますと、日本の理念である憲法を遵守(
しかし、イデオロギーとして考えた場合、軍国主義者・保守主義者・社会主義者などなどの立場でその理念を固有の政治目的に沿わせていることがわかります。しかし、固有の伝統を認め、その保持と漸進的な改善(保守)を考えるという点での保守主義は、強烈な拡張的イデオロギーを持ちにくいとも思えますし、青龍さんが仰るような「保守のイデオロギー性」も明確には表に出にくいものでしょう。そして、感性として偏見としての伝統を認めているという意味で、保守的な考えを持つ人がすべてイデオロギーを持つわけではありません。
この点の明確な区別をしなくてはならないと思えます。
* すみません。この表記はちょっと違いました。「法の支配」概念はいずれ改めて検討したいと思いますので、ここはないものとしてください。
皇室中傷劇 解題
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週間金曜日のお粗末劇
ある思想をもつ人たちが企画し上演したものであるのは明白です。いわゆるサヨクと呼ばれる人たちですね。んで、なんでこういう人たちは皇室を批判するんでしょう。
保守系思想に詳しい人ならもう丸わかりなんですが、起源はフランス革命にさかのぼります。フランス国歌にも歌われた王侯貴族富裕地主層虐殺のあの革命です。
フランス革命についての詳しい資料はこちらが詳しいです。
フランス革命 大解剖
また、フランス革命当時の思想・歴史背景は日本ではあまり知られていません。中にはその発端となるルソーらの思想を軸にフランス革命をものすごく批判的に突っ込んでいる人も少数います。このあたりは中川八洋先生の研究が詳しいので、興味のある向きは先生の著作を読んでいただくとして。
フランス革命により「自由・平等・人権」という概念が出来上がったんですが、それを元に革命を再生産していったのがレーニンであり、スターリンであり、金さんなんです。その傍流としての全体主義体制をひいたヒットラーという人もいました。
日本の左翼思想もその流れを汲んでいますから、彼らの行動は「人権」を強調し、天皇制など過去の体制を否定(批判じゃなくて否定です)するのは自然な流れだと思うんです。
とまれ、週間金曜日の劇が(そのお題目はともかく)皇室批判を軸とし、メッセージとして「皇室はなくなるべきだ」と明白に言っているのは決定的です。この事実を押さえるべきです。
問題は、なんで「皇室」なのかと。金曜日の人たちは「特別な立場にある特権階級だから」といいます。また、いわゆる右翼(極右)の人たちが天皇を奉って軍国主義の旗印とするからイクナイといいます。
で、国旗国歌にも反対します。価値中立でないからとして。この点に関して私は違うと思うんですが。(詳しくは国歌は価値中立たりえるか?を参照してくださいませ)
でも、今の日本では、天皇は象徴なんです。こちらをどうぞ。
日本国憲法は、1条において、天皇は日本国と日本国民統合の「象徴」と規定している。天皇は、憲法上において特別に規定される地位についているものの、政治体制としては、国民が主権者(主権在民)である民主制を採用しており、天皇の地位は日本国民の総意に基づくものとされている。日本国憲法においては、天皇の行為は国事行為を行うことに限定されているが、それら国事行為を行うためには内閣の助言と承認を必要としており、実質的な決定権は天皇には存在せず、国政に関する権能を全く有していない。
wikipedia 象徴天皇制 より引用
日本国憲法により「象徴」として規定され、国政に関与する権能を全く持っていないのです。
なのに、「天皇はイクナイ」と。
私の思うに、実は天皇がいけないんじゃない。天皇を敬慕する感情の否定であろうと思うのですね。象徴としてであっても天皇を敬う「こころ」そのものが国民の中にあってはいけない、と。
そう考えれば、あの劇であそこまで天皇と皇族を「こき下ろす」必然性が見えてきます。
そうすると、二つのことが見えてきます。
ひとつは国民の「象徴としての天皇への敬慕」を消し去ろうとする思想統制の態度。
もうひとつはその態度・思想が「憲法」より上位にあるとする考え。
ものすごく傲慢です。違いますか?
私たちは日本国憲法の元、みな等しく思想の自由を保障されています。人権もとりあえず保護されています。しかし、その自由や人権を「天皇への中傷」という行為で徐々に蝕んでいるというのが、金曜日という劇が行っていることに思えますね。
「皇后を中傷する劇? いやいや、そもそも劇の中で皇室なんて一言も言ってませんよ」
と、こう語るのだ。
「あくまで“さる高貴なお方の奥様”としか言ってないんですから。だから皇室の中傷などではありません。
それは受け取る側の見方ですから、こちらがコメントする理由はありませんよ。そんなこと言うなら核議論と同じで、こっちも封殺するな、と言いたいですね」
週間金曜日のお粗末劇 より再引用
これは主催者側の弁です。なぜこんなことをいえるか。天皇を否定するならすると言えばいいのに。こう考えると「天皇制反対!」と叫んでいる人たちが素直な人たちに見えてきます。この主催者の意図はもっと陰湿なのでしょう。これは劇を見ている人たちへのメッセージなんですよ。静かに、ゆっくりと、天皇への敬慕の念を破壊せよと。次の手を打てと。
それに対し、すぎやまこういち氏が指摘します。
その関係者の一人、作曲家のすぎやまこういち氏は、今回のことをこう語る。
「そうですか。まだ(永氏らは)そんなことをやっているのですか。呆れますね。下品です。
自分に置き換えて考えてみればいい。自分の孫が猿のぬいぐるみにされて、放り投げられたり、病気のことを揶揄されたりしてごらんなさい。人権に対する意識も何もない。
彼らは、いつもは人権、人権というくせに、実はそれが彼らの正体なんですよ。」
週間金曜日のお粗末劇 より再引用
・・・。
そうなのです。天皇を否定することは天皇を象徴として規定している憲法を凌駕する思想を彼らは持ち、その思想実現のためなら国民の敬慕の情を打ち壊してよいというのですから、これは完全な国家無視、人権無視なんですね。
「自分らの思想と合わない考えは抹殺する」
これが、「人権、人権という」人たちの「正体」なのだ、と、すぎやまこういち氏は看破しているんですね。
そして「人権、人権という」人たちの「人権」は一方で他者の人権をイデオロギー的に否定する分、無制限です。法を超越し、どこまでも広がるものです。「自らの思想に添う形でしか人権を認めない」のです。「いや違う、他者も認めるのだ」というなら、なぜ天皇とそのご家族をあそこまで貶められるでしょうか。天皇とそのご家族とて、「人権、人権という」人たち言うところの人権はあるでしょう。
「あっちの人は人権によって保護されるが、こっちの人はだめだよ」という人権なら、それは本当の意味での人権ではありません。恣意的に、イデオロギーに基づき一方が一方の人権を認める考えです。
もっとも、それにより、ソビエト時代も北朝鮮時代もたくさんの人が殺されましたがね。
さて。
たびたび「敬慕」という言葉が出てきましたが、バークはこれを「偏見」といっています。理性ではない、私たちが感情としてさまざまな対象に抱くもの。これが国民をまとめるのだ、ということです。バークはこの考えを主軸にフランス革命を強烈に批判しました。そしてその流れはソ連・ナチスを強烈に批判するイギリス首相チャーチルに引き継がれます。
エドマンド・バーク 解説
ウィンストン・チャーチル 解説
チェスタトンはそれを「おとぎの国」という表現であらわしています。
チェスタトン 解説
いずれにせよ、金曜日の劇が目指していたものはそういう私たちが抱く国の基礎となる「敬慕の念」の破壊であると。
「ターゲット」は私たちであると。
そういうことなんじゃないでしょうかね。「天皇なんてどうでもいいんじゃね? 関係ないし」とか言ってる状況ではないですね。「品性がないやつらだ」と嘲笑している場合でもないですね。
品性などどうでもいいんです。ようは「敬慕の念」がなくなれば。これが、何を意味するか。
政治とかそういうことではなく、日本という国の伝統そのものの破壊です。日本という国が作り上げてきた倫理観や常識や奥ゆかしさや生活態度すべての破壊です。きっと。
週間金曜日のお粗末劇
ついでに、チェスタトンの言葉を引いておこう。
「われわれはすでに、狂人の最大の特徴が何であるかを見た。無限の理性と偏狭な常識との結合である。ところがこの特徴は、気ちがい病院の患者の間だけではなく、先生の間にもかなり広がっているように見えてしようがないのだ。彼らの論理にも一種の普遍性がなくはないが、それはただ、彼がたった一つのせせこましい理論にしがみつき、それをとことんまで突き詰めて得ている普遍性にしか過ぎない。」
G.K.チェスタトン 「正統とは何か」 P29?30
関連エントリは改めて立てます。
(--)凸(--)凸(--)凸(--)凸(--)凸
これより下は資料。
2チャンネルの記事
【週刊新潮】 下劣な週刊金曜日主催の「市民集会」…長文なので注意
◇特集 悠仁親王は「猿のぬいぐるみ」! 「陛下のガン」も笑いのネタにした「皇室中傷」芝居
その瞬間、あまりの下劣さに観客も凍りついた。11月19日、日曜日。
東京の日比谷公会堂で開かれた『週刊金曜日』主催の「ちょっと待った!教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」である。
会場を埋めた2000人近い観客の前で、悠仁親王は「猿のぬいぐるみ」にされ、天皇陛下のご病気もギャグにされる芝居が演じられた……。
その日、東京は冷たい秋雨が降っていた。
高橋尚子が参加した東京女子マラソンがあり、交通規制が都内に敷かれていたその時間に、日比谷公園の一角にある日比谷公会堂でそのイベントの幕は開いた。
安倍政権への対立姿勢を鮮明にする左翼系週刊誌の『週刊金曜日』が主催する緊急市民集会である。
同誌の本田勝一編集委員の挨拶から始まった集会で、問題のパフォーマンスがおこなわれたのは、午後2時半頃からである。
司会を務めるのは、同誌の発行人でもある評論家の佐高信氏だ。
「えー、今日は特別な日なんで、とても高貴な方の奥さんにも来ていただきました。この会場のすぐ近く、
千代田区1丁目1番地にお住まいの方です」
佐高氏がそう言うと、舞台の右袖から、しずしずと美智子皇后のお姿を真似たコメディアンが出てきた。
黒いスカートに白のカーディガン、頭には白髪のかつらと、帽子に見立てた茶托を乗せている。
(※参考:茶托 http://www.sala.or.jp/~matu/mihon20.htm)
そして、顔は顔面だけおしろいを塗って女装をした男である。
会場は、拍手喝采だ。
「本日は雨の中、多くの国民が集まっている中、なんの集会だかわかりませんが」
と切り出すと、大きな笑いが起こった。
「そう言えば、先日、主人と一緒に、ソフトバンクの王貞治監督にお会いしたんです。
王さんは“日の丸のおかげで優勝できました”と、仰っていましたが、この人が日の丸のおかげなんて言うのは、おかしいんじゃありませんか?」
そう言って、コメディアンは笑いをとった。先日の園遊会で、王監督が、天皇陛下に話した内容を皮肉ったのだ。 続けて、
「そう言えば、去年は皇室典範を変えるとか変えないとかで、マスコミがずいぶん騒がしかった。
でも、ウチの次男のところに男の子が生まれたら、それがピタッとおさまっちゃいましたね」
と悠仁親王のことを話題に。そして、
「今日は、実はその子を連れてきているの。ちょっと連れてきて」と言うと、スタッフが舞台の下からケープに包まれた赤ちゃんの人形のようなものを壇上の“美智子皇后”に無造作に手渡した。
よく見ると、猿のぬいぐるみである。
“美智子皇后”は、そのぬいぐるみに向かって、
「ヒサヒト!ヒサヒト!」と声をかけながら、その猿の顔を客席に向けたり、ぬいぐるみの腕を動かしたりする。
場内は大爆笑。
大受けに満足の“美智子皇后”の芝居は続く。
やがて、抱いている猿のぬいぐるみに向かって、
「ヒサヒト! お前は、本家に男の子が生まれたら、お前なんか、イーラナイ!」
と叫んで、舞台の左側にポーンと放り投げるパフォーマンスが演じられた。
だが、このシーンで場内は静まり返った。
若者の中にはクスクスと笑いを漏らす者もいたものの、さすがにここまで来ると観客の大半が凍りついてしまったのである。
そして、ここで登場したのが『話の特集』の元編集長でジャーナリストの矢崎泰久氏と、作家であり、タレントでもある中山千夏さんだ。二人は何十年もの間、行動を共にしている“同志”である。
★静まりかえる観客
「これはこれは、さる高貴なお方の奥さんではないですか。その奥さんにお聞きしたいことがあるんです」
と、矢崎氏。
「天皇なんてもう要らないんじゃないですか。天皇なんてのは民間の邪魔になるだけでしょ?」
と聞く二人に“美智子皇后”は、
「あら、アタシは民間から上がったのよ」と、応える。
中山女史が、
「そもそも天皇になれるのが直系の男子だけという方がおかしいでしょ? 男でも女でも、長子がなれるようにすべきじゃないでしょうか。それで、ハタチぐらいになったら、本人の意志で天皇になりたければなり、なりたくなければ一般人になってそれで終わり。普通の市民のように選挙権も持てるようにすればいい。そうしていけば、天皇家というウチはなくなります」
と、持論を展開。
すると、矢崎氏が、
「そう言えば、今日はご主人が来てませんね?」と“美智子皇后”に尋ねる。
「ハイ」
「どこか悪いの?」
と、矢崎氏。
「ハイ。知っての通り、病でございまして。マエタテセン?じゃなかった、えーと、あ、そうそう、前立腺を悪くしまして。あまり芳しくないのですよ」
「それはご心配でしょうねえ」
「そうなんです」
そんなやりとりが続いた後、突然、矢崎氏が、
「それであっちの方は立つんですか?」
と、聞く。
“美智子皇后”は面食らいながら、
「私の記憶では……出会いのテニスコートの時は元気でございました」と、応える。
場内はシーンと静まりかえった。
天皇のご病気までギャグにされたことで、さすがに観客がシラけてしまったのだ。
「笑い声なんてなかったですよ。何て下劣なことを言うのか、と思わず拳を握りしめてしまいました」
と、当日、イベントに参加した観客の一人がいう。
「その後も園遊会で来賓とお話をする両陛下の物真似で、笑いをとっていましたね。憲法や教育基本法の集会だと思っていたのに、結局、この人たちがやりたかったのは、安倍晋三のこきおろしと、皇室を中傷することだけだったんですね」
だが、あきれるばかりの内容は、まだ続いた。
今度は、元放送作家でタレントの永六輔氏が舞台に登場。永氏は、「ここ(日比谷公会堂)は、昔、社会党の浅沼稲次郎さんが刺殺されたところなんです」
「君が代は、実は歌いにくい曲なんですよ」
などと語り、アメリカの「星条旗よ永遠なれ」のメロディーで『君が代』を歌うというパフォーマンスを見せるのである。
当日、集会に来ていた白川勝彦・元自治大臣がいう。
「永六輔さんが、はっきりとした歌声で、君が代を『星条旗よ永遠なれ』のメロディーで歌いました。うまかったので、自然に聞こえましたよ。へえ、こういう歌い方があるんだ、とびっくりしたというか、妙に感心してしまいましたね」
君が代を『星条旗よ永遠なれ』のメロディーで歌う──
それは、この緊急市民集会とやらの“正体”がよくわかるものだったのである。
★“反権力”に酔う人々
今回“美智子皇后”を演じたのは、劇団『他言無用』に所属する石倉直樹氏(49)である。
(※参考:他言無用 http://www.st21.co.jp/tagon/)
永六輔氏に可愛がってもらって、全国各地のイベントで活躍している芸人だ。
「僕たち(注=メンバーは3人いる)は、テレビではできないタブーに切り込む笑いをやっているんです。
持ちネタは、色々ありますよ。杉村太蔵や橋本龍太郎、それに創価学会だって、やってます」
と、石倉氏がいう。
「中でも最近は美智子様の芸が目玉になってきてますね。実はお笑い芸人として活動を始めた頃、
ちょうど昭和天皇がご病気になって、歌舞音曲慎め、と仕事が次々キャンセルされたことがありましてね。
その時、これはおかしいぞ、と思いました。16年経った今も、お世継ぎがどうのこうの、とやっている。
何とも言えない怖さを感じます。美智子様のことは好きなんで、出来ればキレイに演じたいんですけどね」
悠仁親王を猿のぬいぐるみにしたことには、
「この小道具はよく使うんです。普段は、名前をそのまま言わないんですが、あの集会では、ついフルネームで言ってしまいました。(ご病気については)矢崎さんと中山さんに下ネタをふられ、乗せられてしまいました。
僕は基本的に下ネタは好きではない。永六輔さんには以前、永さんがやっておられた渋谷の劇場にも出させてもらいましたし、去年は沖縄公演にも京都のコンサートにも出させてもらいました。京都では、僕が皇后で、永さんが侍従の役で、色々やりましたよ。僕自身は、これを(市民)運動としてやっているつもりはないし、あくまで自分が面白いと思うことをやっているつもりです」
お笑い芸人としてタブーに挑戦する──石倉氏は腹を据えて演じているらしい。
だが一方、司会を務めた佐高氏の反応は全く違う。
「皇后を中傷する劇? いやいや、そもそも劇の中で皇室なんて一言も言ってませんよ」
と、こう語るのだ。
「あくまで“さる高貴なお方の奥様”としか言ってないんですから。だから皇室の中傷などではありません。
それは受け取る側の見方ですから、こちらがコメントする理由はありませんよ。そんなこと言うなら核議論と同じで、こっちも封殺するな、と言いたいですね」
永六輔氏は、何というか。
「僕はあの日、3時に来いと言われて会場に向かったんですけど、車が渋滞して遅れ、3時半に到着したんです。
だから、そのコント自体、見てもいないし、全然わからないですよ。だから『週刊金曜日』に聞いてくださいな」と、知らぬ存ぜぬだ。
石倉氏に比べて、二人は何とも歯切れが悪い。矢崎氏と中山女史に至っては、取材申し込みに対して、梨の礫だ。
永氏は、かつて、童謡『七つの子』など野口雨情の名作を根拠もなく「強制連行された朝鮮人の歌」などと言ってのけ、関係者を激怒させた“前科”がある。
その関係者の一人、作曲家のすぎやまこういち氏は、今回のことをこう語る。
「そうですか。まだ(永氏らは)そんなことをやっているのですか。呆れますね。下品です。
自分に置き換えて考えてみればいい。自分の孫が猿のぬいぐるみにされて、放り投げられたり、病気のことを揶揄されたりしてごらんなさい。人権に対する意識も何もない。
彼らは、いつもは人権、人権というくせに、実はそれが彼らの正体なんですよ。」
主催者である『週刊金曜日』の北村肇編集長は、同誌の編集後記でこの集会の模様をこう記している。
<冷たい秋雨の中、2000人近い人びとが集まった。不思議なほどに穏やかな空気が会場には流れ途切れなかった。
永田町の住人に対する、満々たる怒りを深く共有しながら、しかし、そこに絶望はなかった>
“反権力”とやらに酔った人々──彼らに付ける薬は、果してあるのだろうか。
ソース:週刊新潮 12月7日号 30-32ページ (エマニエル坊やがテキスト化)
国歌は価値中立たりえるか?
国旗・国歌を価値中立なものにするとはどの様な施策を指すのでしょうか。君が代が天皇の世が続くことを歌い上げるものであり価値中立的なものではない以上、国歌を別の歌に変更するのでもなければ価値中立なものにすることはできません。君が代を国歌としたままで価値中立なものにするのはそもそも不可能だと私は思います。この施策が、君が代を価値中立的なものと見なすということであればまさに「保守」にありがちな自らのイデオロギー性の無自覚といえるのではないでしょうか。
青龍の雑文Blog はてな別館 「伝統」のイデオロギー性 より
この点を考えるにあたり、下記のような資料を用意しました。十分ご存知のこととは思いますが、ほかの読者の方の手前、掲示しますのでお許しください。
フランス国歌 La Marseillaise
いざ進め 祖国の子らよ
栄光の日は やって来た
我らに対し 暴君の
血塗られた軍旗は 掲げられた
血塗られた軍旗は 掲げられた
聞こえるか 戦場で
蠢いているのを 獰猛な兵士どもが
奴らはやってくる 汝らの元に
喉を掻ききるため 汝らの女子供の
武器を取れ 市民らよ
組織せよ 汝らの軍隊を
いざ進もう! いざ進もう!
汚れた血が
我らの田畑を満たすまで
奴隷と反逆者の集団、謀議を図る王等
我等がために用意されし鉄の鎖
同士たるフランス人よ!
何たる侮辱か! 何をかなさんや!
敵は我等を古き隷属に貶めんと企めり!
何と、 我が国を法で縛ろうというのか!
何と、 金で雇われた傭兵共の集団で
我等の誇り高き戦士を打ち倒そうというのか!
我等を屈服せしめるくびきと鎖
我々の運命を支配せんとす下劣な暴君共よ!
wikipedia
および
世界の国家 フランス共和国
より引用し併記
これはフランス革命時にある工兵が作ったものとされています。内容は読んでのとおり、革命勢力がアンシャン・レジームを打倒するためのもの。
フランス革命自体は非常に血なまぐさく、事実、王の処刑、貴族の処刑、地主層の処刑、革命政府に反対する地方都市での大虐殺などなどの内乱(処刑の嵐)に加え、キリスト教教会の焼き討ち、近隣国への侵攻と併合など宗教的・対外的にも暴虐の限りを尽くすものでした。
フランス革命の詳細な歴史の検討は別の機会に譲るとして、この「革命歌」は、革命後のフランス共和国の歴史の中で一時廃止されましたが復活し、今のフランス共和国(現在は第五共和制)で正式に国歌として採用されています。現在、歌詞が子供にとって残虐すぎるということから国歌変更の案も出ているようですが、実現には至っていません。
現在のフランス共和国は直接選挙で選ばれる大統領の下、その指名で首相が選ばれ、半大統領制と呼ばれる責任体制が存在します。議会は元老院とフランス国民会議の二院制。政党は保守系、中道、左派がそれぞれ存在しています。
現在の政治勢力はシラク大統領支持の保守系、国民運動連合が国民会議の過半数を占めています。
* 国民運動連合 - 保守・中道右派
* フランス民主連合 - 中道
* 社会党 - 中道左派・社会民主主義
* フランス共産党
* 国民戦線 極右・移民排斥(議席なし)
wikipedia より引用
さて、この国歌は、フランス革命賛歌です。この国歌を法律で制定し続けているフランス共和国は、今も革命の嵐が吹き荒れているでしょうか。
いいえ。見てきたとおり、民主的な政治が行われ、現在は保守系政党が過半数という状況です。
しかし、その極端な革命イデオロギーメッセージを含むにもかかわらず国歌として行事で演奏され続けている現実があり、それはフランスの象徴として自国・他国に機能しています。
この一例をとってみても、国歌は「国民を統べる象徴」として機能する一方、その内容のイデオロギー性を問われているわけではありません。
一般的に、その統べる主体は憲法であり、その憲法の下、法律が制定され、国民は等しく法律の元に保護され、また、法律を遵守する義務があります。その点で国民は法の下に平等であり、天皇とて例外ではありません。「国民」の誰も、例外ではありません。
今現在の日本が天皇を主体とする国家を形作っているのなら、君が代は天皇のための歌ですが、現実はそうではありません。ですから、君が代を国歌と認めないという「考え」がそのまま国家に対する反逆になることはありえないのではないでしょうか。ですから青龍さんのお考えを誰も罰することはないし、考えを異にする自分とも共存可能なのではないでしょうか。
問題は(過去にたくさん議論されているように)君が代を国家の象徴として儀礼的に歌うのが「ふさわしい」とされる公立学校でその斉唱に反対する行為です(これはあくまでも象徴としての国歌を歌うべき場ということです)。このイデオロギー的行為は、必要とされる儀礼の中で、あえて反対することで「わざわざ価値中立性を歪めている」行為であると思えるのです。つまり、もともと「国家として国民として」の象徴としての意味しかなかったものにイデオロギーを持ち込んだのは、どちらなのか、という批判です。(日本共産党でさえ、国旗・国歌を消極的にではありますが認めていることや国旗国歌を規定する法律が存在するのはとりあえずおいておきますが。)
象徴としての天皇は、封建の権力を現在は持ちえていません。しかし、左翼系といわれるマスコミでさえ、たとえば靖国問題においては天皇の発言というものを政治的に利用しました。天皇はそのような権限を行使出来得る立場ではありえないにもかかわらず、です。
これらは、すべて「イデオロギーを持つ側」が「象徴を利用する」行為です。そしてその利用によって損なわれるのは「法による統治」という理念そのものなのではないでしょうか。
一部分かつ未熟ですが、お答えといたします。続きはまた。
偏見と理性と感性
安倍晋三首相は22日午前の参院教育基本法特別委員会で、学校の卒業式などでの国旗掲揚と国歌斉唱について、「自国の国旗国歌への敬意、尊重の気持ちを涵養(かんよう)することは極めて大事」と述べ、「政治的闘争の一環として国旗の掲揚や国歌の斉唱が行われないことは問題」との考えを強調した。
時事ドットコム
2006/11/22-12:17 安倍首相「国旗国歌への敬意重要」=教基法改正案、参院で実質審議入り より引用
敬意、尊重の気持ちというのは、理性ではないですね。どちらかというと良い意味での「偏見」(偏見って悪いもんじゃねぇの?と思った人、残念。良い偏見もあるんです)。こういった気持ちをイクナイとする人たちは、理性が勝っています。ですから、国家・国旗に対する敬意とか尊重とかいうと「お前、それは間違っているよ」と突っ込むわけです。理性的じゃないとしてね。
でも、人間、理性だけで生きているわけじゃない。感情があり、偏見を持ち、不可思議な領域を信じたがる不合理な生き物なわけです。国、国家、故郷といったものに対し、不合理だけれども自分の生まれ育った場所として愛着を持つわけです。その象徴として存在する「国旗」とか「国家」って、どこの国に行ってもそうでしょうけど、愛着の対象なんですよ。それが真っ当な意味での「愛国心」ではないでしょうか。
その対象・象徴を否定するってぇことは、実は国家を否定するというより人間のそういった感情や不合理さを否定するんです。つまり「理性が一番。理性がすべてを解決していく」という立場ですね。
これ、チェスタトンのいう「全世界を頭の中に押し込める」行為です。逆の人は「世界の中に身をおく」のです。漂うというか。だから謙虚になれる。自分の周りにある無限の宇宙を認めるのですから、人智の及ばないものに対して「こりゃぁカナワンナァ」という感覚、畏怖の念を持てるんですね。
だから、この国で国旗・国家を否定して卒業式で騒ぐような人たちって、傲慢ですよ。口では平和とか反戦を唱えてますが(そりゃもっともだってところなんですけど、どうしてもその背景に理詰めのイデオロギーによるプロパガンダを感じるんですよ)、心底傲慢です。だって、自分の考えつまり理性から導き出された論理に反するとなると子供がどう感じようがお構いなしに抗議しますから。冒頭の引用文ですと「政治的闘争の一環」というやつですね。
子供を政争の具に使うな。と。
このあたり、チェスタトンの著書を読むとすっきりします。なぜ「彼ら」はああも不寛容なのだろう? とか、なんでああも傲慢ですの? とか疑問に思っていたことの多くが解決します。
ただね、「国旗国家反対なり!」って人にも何か理があるということを書かなくてはならないですね。
そういう人たちは、確かに「頭で多くのことを考えています」から、その点は立派です。反駁しようのない理論を持っています。その点では「自分を信じている人」ですよね。
でも、実はそれが危ないんです。
なぜ危ないかは「正統とは何か」第二章「気ちがい病院からの出発」を読むとよくわかります。
著者いわく、自分を信じ、自分の理性を信じて疑わない挙句、自分はキリストであるとか、世界中が自分に対して陰謀をめぐらせていると確信している人がそういう病院の塀の中にいるんですって。
つづきはまた。
いくさのことば
「無駄ではない」ことが、生き残った人々の誇りであり、亡くなった人の墓碑銘であるだろう。
"Not in vain" may be the pride of those who survived and the epitaph of those who fell.
Sir Winston Leonard Spencer-Churchill
wikiquoteより 以下同じ
これが第二次世界大戦の戦勝国という状況で発せられた言葉にしても、関わった人たちの「死」はどんなものであれ無駄ではないと思いたいです。もし「無駄な死」としてしまうなら、人間は繰り返す戦争から何も学ばないということですから。
死ぬ準備はしてあるが、殺す準備をする理由はどこにもない。
I am prepared to die, but there is no cause for which I am prepared to kill.
Mohandas Karamchand Gandhi
確かに「殺す準備」をしているのが軍隊なわけですが、同時に「死ぬ準備」をしているのも軍隊。
決して、諦めるな― 決して、決して、決して。大事か些事かに関わらず、それが名誉や良識に確信があるのでないかぎり、屈服してはいけない。力に屈するな。敵が一見圧倒的であろうと屈するな。
Never give in― never, never, never, never, in nothing great or small, large or petty, never give in except to convictions of honour and good sense. Never yield to force; never yield to the apparently overwhelming might of the enemy.
Sir Winston Leonard Spencer-Churchill
名誉や良識とは何だろうかと考えることも良くあるのですが。
全体主義的マスメディア
TBSの社会正義とは、視聴者に問題を提示して、自立した人間として考えることを促すことではありません。TBSの社会正義とは、端的に言えば、「(左翼的な価値観から)大衆を正しい方向に導くこと」です。そしてその「崇高な目的のためにあらゆる手段は正当化される」のです。
これはまさに全体主義です。こうした全体主義的社風が、ニュースの偏向に限らず、抑制のきかない詐欺行為を生む土壌となるのは、全体主義的世界には自立した個人の存在する余地はなく、そこにいるのは顔のない大衆だけであることを考えれば、想像に難くありません。今回のボクシング詐欺は、一見すると左翼的価値観とは正反対の拝金主義に見えますが、根は一つなのです。
TBSは全体主義者である
通俗的な「みぎひだり議論」では、なかなかこういう考えに至らないのではないかとも思えます。つまり、メディアのプロパガンダを考える上で、リベラル・改革・進歩主義対保守・反動(この言葉も政治用語でしょうけど)という単純な構図ではなく、もうひとつの軸として全体主義を据えた保守、リベラル、全体主義という構図を(昔から保守の立場の人たちが指摘していたように)改めて想定しなくてはならない、ということでしょう。
その意味で、上記エントリはプロパガンダ(煽動)を行なうメディアという視点から見て面白いと思います。
プロパガンダは全体主義に特有のものではありません。ナチスドイツ(民族主義)、中国共産党(文化大革命)や北朝鮮(民主主義(Democratic People's Republic of Korea))のプロパガンダは、大衆が全体主義を「選び取った」時点で最大限にその威力を発揮しましたが、いわゆる非全体主義国家にも、それ相応のプロパガンダ戦略はあり、着実にその効果を上げています。
全体主義国家との相違は、政府によりメディアがすべて支配されていないというだけです。逆に、各メディアがさまざまなプロパガンダ戦略を用いる「多中心現象」が見られます。
こういうなかで情報の取捨選択をせざるを得ないのが、現在の我々がおかれた立場でしょう。
全体主義形成の背景にデモクラシーがあるという指摘がされているわけですが(中川八洋)、たしかに、大衆の政治参加が「個の自由を完全に奪う」危険性を常に内在しているという認識があれば、上記エントリのような考えに至るのはごく自然な流れでしょう。
あと、コメントの中に宮台の島宇宙の比喩がありましたが、あの部分は確かにそう思えます。が、そのコメントの他の部分はまったく同意できず。(苦笑)