冬支度その1(かも)
アウトドアをこよなく(最近はそうでもないが)愛するものとして、この季節はつらい。なぜかというに、アウトドアウエアの更新時期だから。長年愛用しているアウターとか、信頼しているアイテムはそう頻繁に更新しないのだが、「新機能」とか「ニューモデル」というタグがつくと、それだけで物欲をそそられる。
だいたい、この時期はウエアリングに苦労する。暑かったり寒かったりがころころと変化するので、対応が大変なのだ。犬の散歩一つとっても、寒風吹きすさぶかと思えば雨が降ったり、少し走ると暑くて仕方なかったり、休めば急に冷えたりと、1時間程度の外出でも気候条件と活動内容で快適さがころころ変わる。
高機能なアウターは高額なこともあり、そう毎年買うわけにはいかない。事実、今愛用しているものは10年来のものだ。問題は「中間着」というやつで、これは素材や動きやすさなどで、アイテムによって特徴と適応が違う。それらをひとまとめにしてどんとこいというものはない。たとえば中綿として用いられるダウンと化繊では保温力・重さ・濡れたときの機能などは正反対だ。表面素材も軽くてしなやかなものと厚手で密なものとでは透湿性と防風性は背反する。
いろいろ理屈を書いても、結局、新しもの好きなだけのかもしれないが、たとえば5年前と現在を比べても、機能面においてはほぼすべて向上している。だから、欲しくなる。あとはどれを選ぶか。いや、選ばないでおけるか。
急な天候変化で、北風に混じって雨が吹き付ける。もうすぐみぞれになるだろう。悩ましいがわくわくする季節でもある。
だいたい、この時期はウエアリングに苦労する。暑かったり寒かったりがころころと変化するので、対応が大変なのだ。犬の散歩一つとっても、寒風吹きすさぶかと思えば雨が降ったり、少し走ると暑くて仕方なかったり、休めば急に冷えたりと、1時間程度の外出でも気候条件と活動内容で快適さがころころ変わる。
高機能なアウターは高額なこともあり、そう毎年買うわけにはいかない。事実、今愛用しているものは10年来のものだ。問題は「中間着」というやつで、これは素材や動きやすさなどで、アイテムによって特徴と適応が違う。それらをひとまとめにしてどんとこいというものはない。たとえば中綿として用いられるダウンと化繊では保温力・重さ・濡れたときの機能などは正反対だ。表面素材も軽くてしなやかなものと厚手で密なものとでは透湿性と防風性は背反する。
いろいろ理屈を書いても、結局、新しもの好きなだけのかもしれないが、たとえば5年前と現在を比べても、機能面においてはほぼすべて向上している。だから、欲しくなる。あとはどれを選ぶか。いや、選ばないでおけるか。
急な天候変化で、北風に混じって雨が吹き付ける。もうすぐみぞれになるだろう。悩ましいがわくわくする季節でもある。
さらば、お古
久しぶりにモンベルショップへ行った。目的は保温力の高いアンダーウエアだった。しばらく前に、今年も使うつもりで古いのを引っ張り出したのだが、裾がほころびまくっている。膝には苦労してあてたツギがあるが、それもまたほころびかけている。上のウエアはヒジが伸び、すり切れて薄くなっている。最悪なのは股下の部分に大きなほころびができていること。
もう10年も同じものを着ているのだから仕方ないとはいえ、これを捨てるのは惜しい。毎冬、私の第二の肌として苦楽をともにしてきた。この二三年は、違うメーカーのものを幾つか試していた。それこそ高いのから廉価版まで着てみたものの、どうしてもしっくりこず、あるものはタンスの肥やし、あるものは猫の寝床(ただし廉価版のみ)になっている。
古いものを買った当時は、ブランド名をZeroPointといった。今回は、どうせ着潰すつもりだからと、Lサイズの上下、中厚手のものを3組手に入れた。ブラックとブルーとカーキの三色にした。上下を同色で身につけて、色のセットで着回す。これは、過去に同色同サイズを複数買って、さて洗い替えはどうしたもんだろうかと悩んだ経験から得たささやかな知恵だ。
着古したアンダーウエアは、クリーニングのワイヤーハンガーに引っかけてある。これを捨てる気になれない。もしかしたら、寝間着の代わりに(いままでもそうしていたのだけど)また着てしまうかも知れない。心の隅にそんな名残惜しさを抱えて、古いウエアはくてんとしたまま私を見下ろしていることになりそうだ。
なんといったかな。
そう。ライナスの安心毛布だ。
お山はうっすらと白くなった。
もう10年も同じものを着ているのだから仕方ないとはいえ、これを捨てるのは惜しい。毎冬、私の第二の肌として苦楽をともにしてきた。この二三年は、違うメーカーのものを幾つか試していた。それこそ高いのから廉価版まで着てみたものの、どうしてもしっくりこず、あるものはタンスの肥やし、あるものは猫の寝床(ただし廉価版のみ)になっている。
古いものを買った当時は、ブランド名をZeroPointといった。今回は、どうせ着潰すつもりだからと、Lサイズの上下、中厚手のものを3組手に入れた。ブラックとブルーとカーキの三色にした。上下を同色で身につけて、色のセットで着回す。これは、過去に同色同サイズを複数買って、さて洗い替えはどうしたもんだろうかと悩んだ経験から得たささやかな知恵だ。
着古したアンダーウエアは、クリーニングのワイヤーハンガーに引っかけてある。これを捨てる気になれない。もしかしたら、寝間着の代わりに(いままでもそうしていたのだけど)また着てしまうかも知れない。心の隅にそんな名残惜しさを抱えて、古いウエアはくてんとしたまま私を見下ろしていることになりそうだ。
なんといったかな。
そう。ライナスの安心毛布だ。
お山はうっすらと白くなった。
環境の引っ越し
あたらしいMacBookを購入した。本当はAirがほしかったのだけれど、スペックと予算を考え合わせて、重さを犠牲にした。つまり重い方でよいと。
それにあわせて、旧システムもOSのアップデートを行い、最新の10.6.1にする。
旧MacBookからのデータを移行した。書類をバックアップしてから、移行アシスタントによってアプリの移動を済ませる。そのとき、いままでメインで使っていたFirefoxは旧システムに残し、新システムは個人用と仕事用のGmailアカウントを用意して、ブラウザも仕事用はあたらしくDLしたFirefoxに割り当て、個人用はSafariに割り当てた。
はてなのアカウントは、新Firefoxにて、Myはてなのアカウントを割り当てるためにはてなブックマークアドオンを登録し、そこから出入りするようにした。
問題は旧Firefoxのクッキーとブックマークだった。大量のそれらを移行することもできたのだが、あえて旧システムに残した。必要なアカウントとパスワードは安全に保管・移行してあるから、仕事でのMacBookと私用オンリーのMacBookをほぼ切り分けた。
新しいマシンは良い。早いしディスプレイはきれいだし。
それにあわせて、旧システムもOSのアップデートを行い、最新の10.6.1にする。
旧MacBookからのデータを移行した。書類をバックアップしてから、移行アシスタントによってアプリの移動を済ませる。そのとき、いままでメインで使っていたFirefoxは旧システムに残し、新システムは個人用と仕事用のGmailアカウントを用意して、ブラウザも仕事用はあたらしくDLしたFirefoxに割り当て、個人用はSafariに割り当てた。
はてなのアカウントは、新Firefoxにて、Myはてなのアカウントを割り当てるためにはてなブックマークアドオンを登録し、そこから出入りするようにした。
問題は旧Firefoxのクッキーとブックマークだった。大量のそれらを移行することもできたのだが、あえて旧システムに残した。必要なアカウントとパスワードは安全に保管・移行してあるから、仕事でのMacBookと私用オンリーのMacBookをほぼ切り分けた。
新しいマシンは良い。早いしディスプレイはきれいだし。
愛しき日常世界
忙しさを通り越して、私は今何をやっているんだろうと、不意に頭の中が白くなる瞬間がある。つい先日までそうだった。習慣化しているはてブチェックとRSSチェックの時間だけが息抜きだった。それにしたって、意識の半分以上は仕事のことで埋まっている。癖になっている行動だから、ちょっとした時間の隙間にネットを覗くことは負担にならないのだが、何かを考えて書く事など、到底できない心理状態になる。
そういうなかでネットから自分の問題意識に引っかかった出来事はいくつもある。それらは頭の片隅の「いつか書く」の小箱にしまい込みつつ、また仕事に向かう。
いずれ話題にしようと思うのだが、キャンベルの「千の顔を持つ英雄」やそれをもとにした「神話の法則」など「物語」のバックボーン理論は、私の中でつねに「いつか書く」小箱の一番大きな課題になっている。簡単に言えば、神話世界の普遍的物語構造への考察だ。
(この一文を書いている間にも、すでに3回事務連絡が入り中座した(笑))
で、それはすべての「ストーリーテラー」に役立つことでもあるのだが、さらに、人の一生をストーリーと捉えた場合、そのすべての人生に関わるメカニズムでもある。こう書くと宿命論とか機械論めいて見えるが、そうでなく、ダイナミックに変転する私たちの「運命」そのものが、ひとつの「物語」であるという認識である。
「いつか書く」の小箱に眠っている、いくつもの物語たち。あるものは吟遊詩人のファンタジーであり、あるものは無慈悲な宿命への抗いであり、またあるものはブログのエントリであるが、それらはひとつの基盤に依っているものだ。
ストーリーテリングのプラクティカル・ガイドによれば、すべてのストーリーテラーは、その物語を生み出すとき、深刻な内面の葛藤を抱えている。その葛藤が「人生」への洞察となり、物語へと昇華する。生活のエネルギーを削り取るような人生における苦しみは、ストーリーテラーにとって、人生を語る豊饒なる源泉であるという、矛盾してはいるが厳然とした真実がある。
オーディナリー・ワールド。
出発地点は、日常世界である。そこに亀裂が入るとき、旅が始まる。少しずつ、その裂け目に垣間見える、非日常世界に、ヒーローは踏み込むことになる。しかしそれは、たいてい抵抗される。ヒーロー自身によって。
そういうなかでネットから自分の問題意識に引っかかった出来事はいくつもある。それらは頭の片隅の「いつか書く」の小箱にしまい込みつつ、また仕事に向かう。
いずれ話題にしようと思うのだが、キャンベルの「千の顔を持つ英雄」やそれをもとにした「神話の法則」など「物語」のバックボーン理論は、私の中でつねに「いつか書く」小箱の一番大きな課題になっている。簡単に言えば、神話世界の普遍的物語構造への考察だ。
(この一文を書いている間にも、すでに3回事務連絡が入り中座した(笑))
で、それはすべての「ストーリーテラー」に役立つことでもあるのだが、さらに、人の一生をストーリーと捉えた場合、そのすべての人生に関わるメカニズムでもある。こう書くと宿命論とか機械論めいて見えるが、そうでなく、ダイナミックに変転する私たちの「運命」そのものが、ひとつの「物語」であるという認識である。
「いつか書く」の小箱に眠っている、いくつもの物語たち。あるものは吟遊詩人のファンタジーであり、あるものは無慈悲な宿命への抗いであり、またあるものはブログのエントリであるが、それらはひとつの基盤に依っているものだ。
ストーリーテリングのプラクティカル・ガイドによれば、すべてのストーリーテラーは、その物語を生み出すとき、深刻な内面の葛藤を抱えている。その葛藤が「人生」への洞察となり、物語へと昇華する。生活のエネルギーを削り取るような人生における苦しみは、ストーリーテラーにとって、人生を語る豊饒なる源泉であるという、矛盾してはいるが厳然とした真実がある。
オーディナリー・ワールド。
出発地点は、日常世界である。そこに亀裂が入るとき、旅が始まる。少しずつ、その裂け目に垣間見える、非日常世界に、ヒーローは踏み込むことになる。しかしそれは、たいてい抵抗される。ヒーロー自身によって。