広告消しの呪文2月分
先読み貧乏と言う言葉に思う
じゃあ、この「先読み貧乏」さんって何だろうと・・・。たぶん大学院生のモラトリアムに気分は近いと思うんですけど、ある物事が起きると、どんどん先を考えてしまって、結局、動けなくなっちゃう人なんですよ。
情報はあるんです。それで、自分の持っている溢れる知識で普段からいろいろ考えてはいるんですよ。ただ、その知性、豊富な知識で、自分は何を獲得するかを断言できるまでには至っていない。それで、「ああ、自分にはまだまだ知識は足りないんだ」と思ってしまいさらに先読みを続けてるんです。
それでいつか、「あれはもう古い」とか「もう終わったね」と自分で判断を下してしまう。それで、気が付くと、時間だけが過ぎている、と・・・。
「私は器用貧乏ではなく、先読み貧乏なんです」というメールが来たんだ。先読み貧乏ってナンダ?
イトイさんに聞く「Web2.0」(その3)
こういう気持ちになることはあった。ある物事に関して考えるんだけど体が動かない。自分で考えをつらつらと重ねていき、そのどれもに自分で納得してしまい、自分で萎えていくような感じか。
一番目にいえることは、暇だったんだなぁと。考える時間はいっぱいあった。第二に、出来事はあっても動くべき動機がなかった。周りの環境が平穏に思えたし、怒りを抱くような対象もなかった。ゆったりとした思考で時間が流れていくなか、考えだけは刻々と広がり、やがて収拾がつかなくなって白ける。
先読み貧乏でいることって不幸だと思う。ムーミン童話に出てくる哲学者のように、「無駄じゃ無駄じゃ」で終わってしまうのは、本人的にはそのときそれでもいいだろうが、振り返れば不幸だろう。
先読み貧乏ってのは実は先を読んでるんじゃなく、その場その場の考えが移ろって行くのをただ眺めているだけのさめた状態なんじゃなかろうか。
先読み貧乏と言う言葉は、だから、反面とても良い言葉だと思える。「ああ、自分は先読み貧乏なんだ」と言語化できるなら、そこから動ける可能性が自分にはあると分かってるってことだ。
今東光和尚が「ぼやぼやしてるんじゃねぇ!」と喝を入れる場面を思い出した。分厚いメガネの奥で光るつぶらな瞳。
そういえば和尚が良く使う言葉に「遊戯三昧」(ゆげざんまい)があった。先読み貧乏の対極だろう。
見てみぬ振りしてわが身を直せ?
安倍首相直属の教育再生会議(野依良治座長)は29日午前、首相官邸で、首相も出席した総会を開き、「いじめ問題への緊急提言」をまとめた。
提言は8項目で、いじめをした児童・生徒に出席停止など厳しい措置を取ることを念頭に、問題行動に対する指導・懲戒基準を明確にして毅然(きぜん)と対応するよう求めたほか、いじめにかかわったり、放置・助長したりした教員を懲戒処分の対象とすることなどが柱だ。いじめを傍観した児童・生徒の指導強化も盛り込むなど、踏み込んだ内容となった。
中略
具体的な対策としては「いじめは反社会的行為として絶対許されないことであり、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する」と明記した。
いじめ「見ぬ振りも加害者」…教育再生会議が緊急提言より一部引用
YOMIURI ONLINE
いじめ行為は当事者が集団の中に埋もれて見えない場合に持続しエスカレートするわけで、それを表に出す手法として集団そのものを監視装置として用いたくなる。そこで「見て見ぬ振りはいかんぜよ」となるのですね。ふむ。
しかし、集団がそういう性向を持つように誘導するのは難しかろうな。「ちくり」を推奨するのが手っ取り早いが、これは構成員相互に疑心暗鬼の念を抱かせかねないですよ。
倫理的規範により「縛る」ことでそれを達成しようとしたらその集団に対してかなり高度な教育をしなくてはならないでしょう。しかしそれができないからこそ今があるわけですから、簡単に実行できるわけもない。集団を牽引する指導者(教師ね)の再教育やら指導力の高度化やらといった作業が不可欠になる。
しかも、そこに「みぎやひだりのだんなさまがた」が入り込んでくるから余計ややこしい。
結局「見てみぬ振りをさせない態度」を集団構成員に実行させようとするのは「絵に描いた餅」を地で行くようなものであると同時に、「教育現場はこれだけ無能なんですよ」と安倍首相自ら公言していることになるな。これは。
欧米のリベラル教育がやらかした失敗を参考にこういう提言を行っているんだろうけど、小手先だけ真似しんぼの提言こそ「理念なき改革」の見本ではなかろうか。
もらいものの理念を使って中身が伴わないような経営してたら、一般企業ならとっくにつぶれてるよ。
公立学校ってそうならないから良いよねぇ。
立て直そうと思ったら基本理念をぶち上げ、それに沿うような規則作成と行動要綱の実施徹底、その理念要綱に添う形での要員配備をしなくてはならないのはわかっているはず。なのだが。