地方創生「シャッター街課税強化」の欺瞞~まず大店法の規制緩和を反省せよ
先月5月29日。
官邸に「知識人(?)」を集めて地方創生をワチャワチャ話し合う会合が開かれたそうです。
そこで、地方創生施策の基本方針案として、
「空き店舗への課税強化」
の検討が上がったらしい。
でも、そもそも地方でシャッター街が急増したのは、冷戦が終わる頃、「日米構造協議」で「大店法の規制緩和」を呑んだからでしょう。
まるでそれがなかったことのような前提で、
「シャッター閉めてると税金取るぞ!気合い入れろ!」
みたいに発破かけても、(平均して)個人商店が大型ショッピングモールなんかに敵うわけないじゃないですか。
こんなふに言うと、
「そんな悲観的なことを言うな!個人商店だってイノベイティブなアイディアで生き残れる道はあるはずだ!」
みたいなことを言うヤツもいるかもしれませんが、「ムチャ言うな」って話です。
そりゃあ、中には「イノベイティブなアイディア」なるもので生き残るヤツも出るかもわからないが、全体として生き残らない方が多かったら意味ないでしょ。
地方の商店街の意味合いは、
「各地方の商店街や小規模小売り事業が成り立ち、共同体の網の目を構築していた」
という全体的な価値にあるのであり、このような「網の目」をリソースとして国家の「市場」と「政治」が成り立っていたということなのです。
だから、
「うまいことやれば生き残れる」
では、「だからなに?」って話なのです。
地方の商店街が疲弊しているという問題は、別に「彼ら一人一人が可哀想」みたいな話ではなくって、
「地方の共同体が霧散すれば、国家の政治も経済も回らなくなる」
という「国家」の話なのですから。
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また、もちろん東京など人がたくさんあれば分母が多く、公共交通機関も網の目だから、個人商店もまだ成りってゆける。
けれど、そうではない地方の商店街はもはや壊滅状態です。
ノスタルジックなセンチメンタリズムで「シャッター街の合間で細々とやる御婆ちゃんのお店」みたいなのへ行くこともあるにはあるにせよ、それはいわば外人が寺や神社をありがたがっているのと同じであり、まったく空疎な大衆市民の「観光」として選好しているに過ぎないでしょう。
すなわち、「埋め込まれたもの」や「埋め込まれたものとの繋がり」としての商店街の「価値」はここ2、30年で決定的に失われてしまったのです。
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何故、地方の商店街がシャッター街化し、その共同体的価値が失われてしまったか。
車社会化や核家族化、大衆社会化、高度情報社会化、その他共同体の消失などあらゆる事情が考えられますが、商店街に限って言えば
「大店法の規制緩和」
が最も大きな要因であると見るのが妥当でしょう。
正確には「1992年の大規模小売店舗法の改正」というものです。
それまで、各地方の商店街などは政治的には地方の利権構造を作り、議員を送り込むことで中央の政治へ関与してきました。
そして、大型ショッピングモールのような大資本による小売店に対しては、「規制」をかけてきた。
これは正当な話で、だって資本を集中させて「価格」と「種類」と「消費者へのチヤホヤ」を効率的に「供給」すれば、商店街の個人小売店は絶対に勝てません。
それは「正当な競争ではない」のであって、また「過剰な消費者チヤホヤ」なのであるから、「規制」されて妥当な領分でもあったのです。
我が国の商慣習上では!
また、この各地方の共同体は流通の組織とも連動しており、「卸し」や「メーカー希望小売価格」などの慣習とも繋がりがありました。
昨今、アマゾンなどのEコマース事業における宅配料金の問題、ヤマトの過剰サービスの問題があがっていますが、それだって元を正せばここと繋がりがあるのです。
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では、何故その「大店法」が改正されてしまったのか。
それは「日米構造協議」というアメリカの市場開放要求に、日本が屈服したからです。
アメリカは、
「そうやって商店街の維持のために規制をかけたりしているのは、日本市場の閉鎖性であり、貿易障壁である。規制を緩和して市場を開け」
と言って、日本の商慣習にまで口を出し、その改変を要求してきました。
で、時はちょうど冷戦が終わる頃で、(私自身はまだ幼稚園生だったのでわからないのですが)おそらく日本人は
「冷戦が終わっても、アメリカに守ってもらいたい」
と思っていたのでしょうね。
だから、日本の一部を「切り売り」して、他の人たちは「徴兵される確率を1%でも下げておきたい」と思っていたのだと推測します。
(何故そう思うかと言えば、今がそうだからですけれど)
だから、日本人で「個人小売店をやっていなかった人たち」は「個人小売店をやっていた人たち」を裏切り、切り捨て、アメリカへ売り渡したわけです。
で、きっとそういう「格好の悪さ」をごまかす必要があって、「構造改革」というのを「経済的合理」の下に正当化する力学になっていったのではないでしょうか。
また同時に、こうした構造改革の抵抗勢力となる「地方を代表する代議士の集まりという意味での自民党」をぶっ壊すことに正当性が必要とされたと見れば、90年代に「政治制度改革」が求められてしまったことにも繋がりが見えてきます。
つまり、大店法の規制緩和のような「国家の切り売りをして自分だけ助かる」ということを国民レベルで「ごまかす」ためには、
「土地的なるものへの敵意」
が正当化される必要がでてきますでしょう。
そして、土地的なるもの、商店街のような地方の共同体の存在は、さまざまな既得権益や、政治や、コネや、閉鎖性を伴いますが、そういうものを嫌うのは2種類います。
1 外資
2 疎外者としての大衆市民
です。
すなわち、「外国の企業」と「土地の共同体に組み込まれて育たなかった日本人」が、口裏こそあわさなかったものの、「日本の土地的なるもの、共同体の網の目」に対する「敵意」を大いに発揮してきたというワケ。
でも、そうやって発揮できる状況を作りだしたのは、
「冷戦が終わっても、国家の切り売りをして徴兵される確率を1%でも下げる……ということを国民レベルでごまかす」
と解釈する他ない。
こうして日本社会はますます大衆化して空疎さと無価値感の地獄を味わうことになったわけですが、それはだいたい「自業自得」とも言える話なのかもしれません。
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以上を踏まえて、それでも日本を続けるというのであれば、やはり「地方」の共同体を再興せねばならないという話になってくる。
しかし、その「地方創生」の話も「構造改革」の筋上での再興観だから、価値基準は「消費者選好」であり、「外人が寺や神社やアニメをありたがる」ような観光視点でしかない。
というか、その構造改革路線はもはや「常識」として昇華されてしまって、誰も「大店法の規制緩和に対して罪悪感を覚えておく」ということすらしなくなっているので、
「シャッター降ろしている店舗に税強化すれば、シャッター開けるだろ」
みたいな安易な話ができるのでしょう。
そうではなく、本当に地方の商店街を再興し、共同体の網の目を再構築するのであれば、まず、
「大店法の規制を強化」
しなければならないのではないでしょうか。
そのためには、構造改革的なX「供給力と消費者目線」から脱し、Y「消費力と供給者目線」が必要になるのですが、そこがなかなか理解されないのでしょうね。
(了)
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コメント
この規制緩和の悪辣なとこは、例えば地方の大型ショッピングモールが赤字で潰れても、その街の商店街はもとに戻らないという点ですよね。
一度失ったものは二度と帰ってこない―
平成日本人はそれに対する真剣さが全くなかった。
中央のマスメディアが「独創的なアイデアで観光客を呼ぶ地方」を嬉しそうに取り上げることがありますが、あれにもどことなく「上から目線」を感じます。
そうじゃないだろう、と。平成日本人の偽善や欺瞞の犠牲になったのが地方だろう。それをまず考えないといけない。
そこを全く反省しない平成日本人による「地方創生」など、失敗するに決まっている。
pen_nat #- | URL | 2017/06/04 21:02 [edit]
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