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「ニュートラルな知識人」こそ、右翼や左翼よりも邪悪
現今の日本国家を蝕むもの、それは確かに「ウヨク」であったり「サヨク」であったりする部分もあるかもしれません。
でも、そんなニッチな連中よりも、もっと気の遠くなるほど膨大で、低劣で、反国家的なものは、
「ニュートラルな知識人(ソフィスト、詭弁家)」
というものです。

昨今、右や左の時代は終わった……ということが言われたりもする。
なるほど、確かにそれはそうでしょう。
それは、「右は右の狭い世界」で「左は左の狭い世界」で閉じこもり、お互い都合のイイことばっかり言っているので、保守は「愚鈍」に、リベラルは「屁理屈」に堕して、「普通の人」から見れば甚だ非常識に見える……という、かなり昔から生活民の中では察知されているごく常識的な話でもあります。
特に「冷戦」が終わって、「自由主義」と「社会主義」という対立軸すら失われれば(そんなもの失われて良いのですけれど)、左右の議論とは「単なる趣味」に堕す気配が濃厚になることは、論理的必然とも言えるでしょう。
そして、実際そうなのです。
たとえば、「右!」っというメディア、「左!」っというメディアなんて、ハッキリ言ってせまい市場ですよ。
どう見ても一般的に、今の世の中の雰囲気を作っているのは、
「右とも左ともつかないニュートラルな知識人」
というものです。
そりゃあ一般の「社会人的処世」というものを考えれば当然の話です。
だって、現今の社会人的処世では「右っぽい右の議論」「左っぽい左の議論」など、むしろ「場」を凍らせるだけでしょう。
なのだから、狡猾な知識階級の大多数は、
「ニュートラルな知性」
を演じるのが最も都合がイイと思うに決まっているじゃあないですか。
◆
さて、問題はここです。
と言うのも、確かに、
「右や左の時代は終わった」
というところまでは現状認識の再確認であり、何度も再確認すべきところでありましょう。
ただ、右や左ではない、
「ニュートラルな知性」
というのが、「右」や「左」以上の「邪悪」であることに、これまで我々「日本国民」は無警戒すぎでした。
そもそも、「ニュートラルな知性」とは言え、それはほんとうにニュートラル(中立)というのではありません。
そんなものは人間に体現しようがありませんから。
ただ、それが(右でも左でもない)「ニュートラルな知性」と前提されるのは、「合理」を「中立」の基準においているからです。
でも、「合理」というのは、合理そのものから「価値」は出てきませんので、ほぼ無自覚に「合理の前提となる価値基準」が暗黙に了解されているワケ。
そして、その暗黙の価値基準には、
「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和」
を「最終価値」に置くことになっている。
この最終価値を基礎に「合理」を組み立ててゆくのが、
「ニュートラル(中立)」
で、
「知性的である」
という話に、何となくなってしまっているのです。
◆
そして、この前提に従い合理をしつらえるのが、知識人であり、専門人なのです。
と言うか、我々一人一人は
「イチ社会人」
たるもの、
「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和を前提して『合理』を組み立てた体系の流行」
に敏感でなければならない……ということになっていますでしょう。
職場や、電車や、喫煙所での「社会人としての処世」をやりくりするためには!
ので、必然「ニュートラルな知識人」というもののニーズも、こうした大衆社会的に確保される。
また、政府組織も「民主主義」であるからして、この
「ニュートラルな知識人と、知識の大衆消費の邪悪な循環」(大衆世論)
に屈服するハメに陥っているワケです。
(これはもちろん、みんな無自覚のことでしょうけれど、「言われりゃあ気づく」という程度には自覚的なんじゃあないですか。)
ここまで来ると、
「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和という価値前提」
そのものを問うことは絶望的に困難になってきます。
もしこの価値前提に刃向かおうとする者があらば、大多数は「わからないフリ」か「キチガイ扱い」してうやむやにするに決まっているのです。
◆
でも、私から見れば、こうした空疎な前提を基礎に合理をしつらえる
「ニュートラルな知識人」
こそキチガイであり、
「19世紀以降、せまくなってしまった地球の中で、それでも日本国家を千年先まで続かせようとする正統な全体事業……に仇する者たち」
にしか見えないのです。
そして、現今では、こうした「ニュートラルな知識人」は、自覚的にせよ無自覚的にせよ、ぼぼ例外なく「土地的、封建的な既得権益」を嫌う「構造改革論者」であり、「国家を時間制限付きのもの」として前提している。
なるほど、国家は時間制限付きのものかもしれないが、その運命に刃向かうのは「国民の歴史的義務」であり「政府存立の大義」であるはずです。
でも、大衆はこれを放棄しておける「前提」を基礎にした合理を好むワケ。
土地や国家に縛られなくって済む前提が合理によって支えられれば、国民の歴史的義務を放棄しても自分で自分をイイ人であると思っておけるから。
だから、知識人は、大衆の好む前提の上で、自分の専門的見地から合理をしつらえる。
そして、そのニュートラルな合理が、前提を補強するワケ。
つまり、「前提によって合理がしつれらる」のではなく、「合理によって前提が補強されている」のです。
◆
すなわち、ニュートラルでナチュラルに売国する者たち……それが、
「右でも左でもないニュートラルな知識階層」
であり、私の生涯の「敵」なのです。
この「敵」と闘うためには、むしろ彼らを圧倒するほどの「知性」が必要になる。
でも、問題は、その「知性の積み方」を誤ると「ミイラ取りがミイラ」で、知らず知らずのうちに自分が「ニュートラルな知識人」になっちまう危険性が容易に察知されるのだから、そこには第一級の注意を要するのですけれど……。
(了)
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戦前コスプレ保守について
1 当たり前だが、今は戦前にはならない。
(これは「今を戦前にさせない」と言う左翼にも共通した滑稽さであるけれど)
2 そもそも「戦前は素晴らしかった」と言った時、そのひとつひとつが極めてテンプレートに過ぎる。
3 また、そのテンプレートの多くは欠陥が多すぎで、「純粋近代に刃向かうものとしての戦前を言いつつ、韓国を近代化させたのは日本だと自慢する」という矛盾や「大東亜戦争の目的は結局なんだったのか」についての解釈の非論理性は、リベラルからすると格好の餌食。
さらに、「特攻隊を裏切り、本土決戦前に降伏した罪」などについてはゴマカシまくって筋立てない都合の良さ。
(※ちなみに、昨年の今上陛下の御言葉にただちにお応え申し上げ、皇室典範を皇室へお返し申し上げるべきだったのはこのことと関係する。そもそも、大東亜戦争で「後に続く者を前提に先に死んだ者」を裏切ってまで降伏したことに一縷の理があるとすれば、それが「勅」であったから。でも、ここには坂口安吾の言うような可能性がある。すなわち、「天皇陛下がおっしゃるのであればやむをえない……という体で、実は天皇が降伏を命じてくれてホッとしていた」という低劣な可能性である。でも、これまでは当然「そうではない可能性」も微かにあった。しかし、昨年の今の天皇陛下の御言葉にこうもグズっているとなると、結局のところ我々はなにか刹那的に都合の良いときだけは御聖断を仰ぐけれども、そうでもないとき、それこそ「GHQにより皇室典範が法律の系列下に置かれてしまっているという戦後体制からの脱却」などに関しては都合が悪いからグズる国民だ……と解釈せざるをえなくなる。すると、あの時もやはり単に「先に死んだ者を裏切る」ということを天皇のせいにしていただけだったという話になってしまうのである!)
4 その意味でこういう手合いは、「幕末、戦国武将、平安ロマンなどに都合の良いファンタジーを感じ、様々な二次設定をこしらえてしまう歴史オタク」と根本的に変わらないがゆえに「コスプレ保守」と区分するのが適切。
5 このことからも昨今保守派(?)の想っている「戦前」とは、単に「今の感覚から見て都合の良い『戦前』のイメージ」である疑いが強い。
5 ただ、そこでこうした「都合の良い『戦前』のイメージ」 を「戦前そのもの」とみなして反発するのは筋違いである。この場合、「今の感覚から見て都合の良い戦前のイメージをしつらえる『態度』そのもの」に反発することが大事になってくる。
例えば、永遠のゼロやAPPA懸賞論文、少し前に話題になった森友学園塚本幼稚園の表現するものを「戦前」とみなして反発すると、一方でその「今の感覚で過去を裁断して作り出した安っぽいイメージ」自体は継承した上で反発することになってしまう。ムカつきポイントは「今の感覚で過去を裁断して自分に都合の良いイメージを作っているヤツらの『態度』そのもの」なのである。
保守もリベラルも(福祉政策以外の)政府の公共的な需要を敵視してきた
保守、リベラルでもう一つ気をつけなければならないのは、政治思想と経済思想が組み合わさって群れているから、結局のところ双方同じような過ちを犯し続けているということです。
とりあえず、「ステレオタイプな保守っぽい政治言論」と「ステレオタイプなリベラルっぽい政治言論」というものがあるとする。
これに付随して何故か「保守っぽい」のは「自由市場を重んじて経済から政治を排除する」ということになっており、「リベラルっぽい」のは「社会福祉っぽいものを重んじて弱者を救済する」ということになっている。
すると、社会福祉以外の「経済における政府の統治力」は保守っぽい者からもリベラルっぽい者からも排撃されることとなる。
昨今、「学芸員が癌」とかなんとか言っていた政治家がいたらしいけれど、これはかつての民主党の「仕分け」と発想が同じであるし、もっと言えば小泉政権による独立行政法人のカットからおんなじです。
公共投資や政治家、官僚の給与や人員を下げるというのも共通していますでしょう。
私から見れば、むしろこうした思想が癌なのです。
まったくもって政府の公共的な需要を敵視するというのは、保守もリベラルも共通してやってきたことであり、そしてそれがデフレを長期化させて、国家全体を傾かせてきた。
この21世紀の新しい時代とはそういう暗黒の時代だったというのが、21世紀に20代をやってきた私の印象です。
保守は不安で動き、リベラルは不満で動く
保守、リベラルという分類にあまり意味がないというのはわかっているけれど、政治、経済というマイナーなジャンルの中で「保守、リベラルの対立」というのは注目構造であるようです。
それは森友学園問題の盛り上がりを見ても明かで、世の中を動かす一因であるには違いないから、まったく無視するというわけにもいかない。
というわけで、世の中の保守っぽい人、リベラルっぽい人というのを「保守は~、サヨクは~」というふうに標語にしてみるやり方は一定程度形式として流通している。
それを私もやってみようと思います。
だいたい、保守はかなり良心的な人であっても「日本という単位を重んじる」という「想い」だけは持っているけれど論理的にメチャクチャなことを言う愚鈍なのが多い。
対して、リベラルは理屈だけは通って論理はきちんとしているのが多いけれど、その目的に「日本」がないので、いわゆる悟性的な人間観に陥っているのが多い。
これを一言でいえば、「保守は不安で動き、リベラルは不満で動く」ということになります。
保守は不安だから「想い」が先行して言葉をしっかりと編み込む前に感情を発散させてしまう。だから、言葉の世界での余地を多く残し過ぎの状態で群れて跋扈する場合が多い。
リベラルは何か「不満」があってそれに反抗する論理を積み重ねるので言葉の整合性は取れているように見えるが、その論理の向かう先と前提は取ってつけられたような安っぽい民主主義やヒューマニズムであることが多い。
そんな印象です。
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