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IT産業の発信力
産業ごとにいろいろな特質のあることは、経済全体を考える上でも忘れてはならないことでしょう。
今日は、発信そのものを生業とする産業が元から持つ発信力というものは、やはり他の産業とは違うということを考えたいと思います。
◆
たとえば、マスコミ産業は、大量の消費者に対して情報を発信することが生業だから、その発信にはマスコミそのものの価値や社会観を下支えするような発信に、どうしてもなります。
だから、そもそもマスコミの問題において「在日がどう」など、そんなのは小さな話なのです。
じゃあ、何が大きな問題かと言えば、たとえば、「マスコミの価値を高く見積もろう」という潜在意識は「民主主義の価値を高く見積もろう」という潜在意識と絶対に関係がある……というような現象的な問題が、問題なのです。
だってマスコミで働いている人は、マスコミで働いているんですから、マスコミというものの価値が高いと思っておきたいに決まっているのであり、すると、「大量の消費者へ情報を提供することの政治的価値」というものに自ずと価値を高く見積もろうとするのであり、民主主義というイデオロギーほどこれに合致するものはないというわけ。
これは、「経済における民主主義」としての「市場原理主義」でも同じことが言えるでしょう。
つまり、マスコミ人士は、マスコミ人士というだけで、自分でも気づかないうちに
「反権力・反国家の民主主義イデオロギー」
を持ち、
「既得権益を打破する市場原理主義イデオロギー」
を持ち、これに「弱者救済的なセンチメンタリズム」のスパイスを加えた型を前提として、社会のあれやこれやを報じることになります。
そして、それは大量の「大衆消費者」との結託の下、「国家」の信仰的な価値の合意をそぎ落としてゆくわけです。
◆
あるいは今日、IT産業の発信力というものが大変な影響力をもってしまっています。
IT産業は、公的な情報インフラ的な領域、マイクロソフトやアップルなどのディバイスの領域、グーグルやツイッターなどのプラットフォーム、アマゾンや楽天などのeコマースやコンテンツ配信などの対消費者など「対消費者」のネットビジネスまで枝分かれしています。
ですから、その具体的な情報そのものは、マスコミ情報のように巨大な主体によって発信されていません。
小規模から中規模のベンチャー企業たちの雰囲気が、主にその膨大な発信を方向づけている。
(※ネット上で、消費者一人一人の発言が集約されていると見るのは幻想で、ネット上の個人の発言はブログやツイッターなどのプラットフォーム上で行われている以上、そのプラットフォームの前提や雰囲気に支配されているのです.。もちろん、炎上すればその限りではありませんが)
で、このIT産業の、各コンテンツを発信したり、プラットフォームを提供する企業の方向づけは、
「高度IT情報化への楽観」
が大前提されているのです。
そりゃあ当たり前の話で、自分がIT産業内で仕事をしているわけであるから、
「高度IT情報化はあんまりよいものではない」
という見積もりで、IT産業の中でメシを食うことなど、気持ち的にできませんでしょう。
そして、これはネット上の消費者との結託によって大前提されるわけです。
この楽観がもたらす問題は、第一に
「徹底した個人主義」
です。
今日これは弱肉強食という意味での個人主義というよりは、「弱い人が可哀想とは思っているんです」というエクスキキューズは払いながら、
「個人のあーしたい、こーしたい」
をより実現するのがIT情報化の価値であるという要素還元的な価値体系に集約されてきている。
逆に言えば、「一人一人があーしたい、こーしたい」ということを実現することの価値を高く見積もれば高く見積もるほど、IT産業の価値も前提づけられることになりますから。
「IT関係者も社会意識は高い人もいる」……とおっしゃるかもしれないが、その社会観そのものが方法論的個人主義を基礎に置く場合が多いので、結局のところ、
1「個人の選択を最終価値に置く社会意識」
か、
2「一足飛んでグローバルな地球人類的価値を前提した社会観」
か、
3「弱者救済のヒューマニズム」
か、に集約されて、現実の「国家」「場所」「共同体の中の身体性」というものの価値が、徹底して一切排除、無視されることになる。
そして、繰り返しますが、それは大量の「大衆消費者」との結託の下、「国家」の信仰的な価値の合意をそぎ落としてゆくわけです。
◆
逆に、現実の「国家」「場所」「共同体の中の身体性」の価値に資するような産業……たとえば、運送業、土木建築業、農業、製造業、個人事業商店などは、その産業そのものに「発信力」は備わっていません。
でも、実際の国家に必要なのは、そうした土地的、実質的、身体的な産業であるに決まっているのです。
(産業ではないけれど、そこには公務員を加えるべきでしょう)
そして本当は、こうした産業に従事する人々の常識や慣習こそ、国家観、社会観として据えられるべき前提であるに違いないのです。
でも、繰り返しますが、こうした産業には産業そのものの持つ発信力は低い。
だから、そのギャップを埋めるのが、政府の統治の役割のひとつでしょう。
つまり、今我々に必要なのは、「個人の選択肢を広げる」などということではなくって、こうした「実質的な産業」や「土地」へ個人を縛り付けておく統治を、国家、政府当局としてどう行っていくべきか……ということを個人として考えるという意味での個人主義なのです。
(了)
今日は、発信そのものを生業とする産業が元から持つ発信力というものは、やはり他の産業とは違うということを考えたいと思います。
◆
たとえば、マスコミ産業は、大量の消費者に対して情報を発信することが生業だから、その発信にはマスコミそのものの価値や社会観を下支えするような発信に、どうしてもなります。
だから、そもそもマスコミの問題において「在日がどう」など、そんなのは小さな話なのです。
じゃあ、何が大きな問題かと言えば、たとえば、「マスコミの価値を高く見積もろう」という潜在意識は「民主主義の価値を高く見積もろう」という潜在意識と絶対に関係がある……というような現象的な問題が、問題なのです。
だってマスコミで働いている人は、マスコミで働いているんですから、マスコミというものの価値が高いと思っておきたいに決まっているのであり、すると、「大量の消費者へ情報を提供することの政治的価値」というものに自ずと価値を高く見積もろうとするのであり、民主主義というイデオロギーほどこれに合致するものはないというわけ。
これは、「経済における民主主義」としての「市場原理主義」でも同じことが言えるでしょう。
つまり、マスコミ人士は、マスコミ人士というだけで、自分でも気づかないうちに
「反権力・反国家の民主主義イデオロギー」
を持ち、
「既得権益を打破する市場原理主義イデオロギー」
を持ち、これに「弱者救済的なセンチメンタリズム」のスパイスを加えた型を前提として、社会のあれやこれやを報じることになります。
そして、それは大量の「大衆消費者」との結託の下、「国家」の信仰的な価値の合意をそぎ落としてゆくわけです。
◆
あるいは今日、IT産業の発信力というものが大変な影響力をもってしまっています。
IT産業は、公的な情報インフラ的な領域、マイクロソフトやアップルなどのディバイスの領域、グーグルやツイッターなどのプラットフォーム、アマゾンや楽天などのeコマースやコンテンツ配信などの対消費者など「対消費者」のネットビジネスまで枝分かれしています。
ですから、その具体的な情報そのものは、マスコミ情報のように巨大な主体によって発信されていません。
小規模から中規模のベンチャー企業たちの雰囲気が、主にその膨大な発信を方向づけている。
(※ネット上で、消費者一人一人の発言が集約されていると見るのは幻想で、ネット上の個人の発言はブログやツイッターなどのプラットフォーム上で行われている以上、そのプラットフォームの前提や雰囲気に支配されているのです.。もちろん、炎上すればその限りではありませんが)
で、このIT産業の、各コンテンツを発信したり、プラットフォームを提供する企業の方向づけは、
「高度IT情報化への楽観」
が大前提されているのです。
そりゃあ当たり前の話で、自分がIT産業内で仕事をしているわけであるから、
「高度IT情報化はあんまりよいものではない」
という見積もりで、IT産業の中でメシを食うことなど、気持ち的にできませんでしょう。
そして、これはネット上の消費者との結託によって大前提されるわけです。
この楽観がもたらす問題は、第一に
「徹底した個人主義」
です。
今日これは弱肉強食という意味での個人主義というよりは、「弱い人が可哀想とは思っているんです」というエクスキキューズは払いながら、
「個人のあーしたい、こーしたい」
をより実現するのがIT情報化の価値であるという要素還元的な価値体系に集約されてきている。
逆に言えば、「一人一人があーしたい、こーしたい」ということを実現することの価値を高く見積もれば高く見積もるほど、IT産業の価値も前提づけられることになりますから。
「IT関係者も社会意識は高い人もいる」……とおっしゃるかもしれないが、その社会観そのものが方法論的個人主義を基礎に置く場合が多いので、結局のところ、
1「個人の選択を最終価値に置く社会意識」
か、
2「一足飛んでグローバルな地球人類的価値を前提した社会観」
か、
3「弱者救済のヒューマニズム」
か、に集約されて、現実の「国家」「場所」「共同体の中の身体性」というものの価値が、徹底して一切排除、無視されることになる。
そして、繰り返しますが、それは大量の「大衆消費者」との結託の下、「国家」の信仰的な価値の合意をそぎ落としてゆくわけです。
◆
逆に、現実の「国家」「場所」「共同体の中の身体性」の価値に資するような産業……たとえば、運送業、土木建築業、農業、製造業、個人事業商店などは、その産業そのものに「発信力」は備わっていません。
でも、実際の国家に必要なのは、そうした土地的、実質的、身体的な産業であるに決まっているのです。
(産業ではないけれど、そこには公務員を加えるべきでしょう)
そして本当は、こうした産業に従事する人々の常識や慣習こそ、国家観、社会観として据えられるべき前提であるに違いないのです。
でも、繰り返しますが、こうした産業には産業そのものの持つ発信力は低い。
だから、そのギャップを埋めるのが、政府の統治の役割のひとつでしょう。
つまり、今我々に必要なのは、「個人の選択肢を広げる」などということではなくって、こうした「実質的な産業」や「土地」へ個人を縛り付けておく統治を、国家、政府当局としてどう行っていくべきか……ということを個人として考えるという意味での個人主義なのです。
(了)
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