タバコは「命はそこそこ粗末に扱うべき」という常識を社会で共有する機能を果たしてきた
最近、またさらに強いタバコ規制の動きが出ています。
私は喫煙者ですが、「喫煙者のタバコを吸うケンリ」など、どーでもイイと思っています。
しかし、ざっくり言えば「嫌煙」の社会的モチベーションが「生命尊重主義」にあるであろうことが明白なので、そこがスゲー気にくわねーのです。
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そう言えば、私の子供の頃、タバコの煙は生活の一部でした。
家ではオヤジがタバコ吸ってて煙で輪っか作ったりしていたのを覚えている。
街では電車の車両の中でもタバコを吸っていたでしょう。
私が子供の頃、副流煙なんてバリバリに吸っていたわけです。
私はこのタバコの煙のある風景を見て、「命はそこそこ粗末に扱うべきもの」という常識を、みんなで共有しているのだと思っていましたよ。
そして、それはかなり心救われることだったのです。
嫌煙は、社会が「過剰な生命尊重」へ陥っている左証だと思います。
というか、生命尊重くらいしか社会が価値を感じられなくなっている全体的な精神の欠乏なんじゃないでしょうか。
しかも、それはかなり欺瞞的で、「生命そのもの」よりも「生命尊重の『態度』を共有する」方に、みんな目的をおいているのではないかとも思われる。
他にも、
1 本当に言うほど副流煙が害悪であるか相当疑わしい
2 オリンピックもあり、WHOからいわれているから……というグローバルな力学が強すぎる
3 電子タバコはイイという風潮が浅はかすぎる
(「電子タバコの害悪」<「タバコ」である証拠はないのです)
など、ムカつきポイントはありますが、一番重大なのは嫌煙のモチベーションが「生命尊重主義の徹底」にあるに違いないということです。
嫌煙社会の「生命尊重の徹底」が人間に与える精神的健康被害は、副流煙の健康被害より大きいかもしれないだろと声を大にして言いたい。
まあ……ただ、もはやタバコの煙のない風景が常態化してしまった昨今では、それほどこだわってもしかたないのかもしれませんね。
私はタバコ、やめませんけど。
(ましてや電子タバコなんて気色悪くて絶対イヤです!)
(了)
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コメント
絶対的価値の喪失した世界に出現したのが、この「生命尊重主義」なんですね。それが昨今の嫌煙騒動にも繋がっているというのはおもしろい。
私は父親がヘビースモーカーで、それが反面教師となったためか、タバコはまったく吸いません。しかし、巷に溢れる嫌煙論にはイライラする。
父親は昨年、実際に身体を壊してしまい苦労しているので、「タバコの害」というものは私も十分に認識しています。それでも昨今の嫌煙論は死ぬほど嫌いなんです。
その理由が、今回わかった気がします。
pen_nat #- | URL | 2017/06/01 12:29 [edit]
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