2008-08-15(Fri)
貴い犠牲なんて無い
今日は、敗戦を終戦と言い換えたペテン記念日だ。
■■
ウィキによれば、1951年頃までは、降伏記念日とか敗戦記念日と呼んでいたらしい。
その後、朝鮮戦争の勃発や日本軍(自衛隊)の復活とともに、「終戦」記念日と言い換えられるようになったようだ。
何が違うのかというと、「誰が」という主体があるかないか だ。
「負ける」のは、自然になんとなく負けると言うことはあり得ない。
誰かが誰かに負けるのである。
しかし、「終わる」のは、誰とも無く自然に終わるというイメージがある。
主体がない、責任者がいない ということだ。
ときあたかもオリンピックたけなわ。
たとえば、柔道で鈴木桂治が初戦敗退したときに、鈴木敗戦とは言っても、鈴木終戦とは絶対に言わない。
それは、負けた主体がはっきりしているからだ。
(鈴木選手を揶揄するつもりではないです。念のため。)
しかし、5分の時間が過ぎて、自然に試合時間が終わったときは、試合終了という。
これは、選手には関係なくおきることだからだ。
オリンピックならば、健闘を讃えればいいことだけれども、戦争ならばそうはいかない。
そうはいかない、トンデモない事態に対して、「誰が」を誤魔化すために作られたペテン用語が「終戦」という言葉だ。
もちろん、戦争の責任は勝った方にも負けた方にもある。
特に、太平洋戦争のばあいはそうだ。
アメリカにも日本にも責任はある。
その、両方の責任をアイマイにして、次なる戦争=朝鮮戦争へ向かっていくために、「終戦」という言葉が作られたと言えるだろう。
だから、今日、8月15日は、敗戦記念日であると同時に、「終戦」ペテン記念日というわけだ。
ところが、現実はもっと非道いことになっている。
終戦記念日「1面」扱い この新聞だけ
2008.8.15 Jcast
ペテン用語の終戦記念日すら、意図的に消されようとしているらしい。
とは言うものの、テレビでは、「終戦」記念日の特番がいろいろやられてはいる。
オリンピックと高校野球の裏裏番組で、どれだけ視聴されているのかはわからないが、午前中は家で事務作業をしながらテレビをつけていたら、いろいろ流れていた。
サイパン・グアムの玉砕体験をした話や、「キクちゃんとオオカミ」のアニメ。
野坂昭如原作のこのアニメは、オオカミの方がよほど優しく見えるほどに悲惨で過酷な戦争の体験を、象徴的に描いていた。
中国残留孤児がどうして生まれたのかという逸話でもある。
開拓民を残していち早く逃亡した日本軍がちゃんと描かれていないという憾みはあるものの、いいアニメだと思った。
■■
しかし、悲惨で残酷なのは、こうした戦争局面だけではない。
こんな非道い現実を見ても、なんとも思わない連中がいる、というその現実の方が、はるかに残酷で恐ろしいことだ。
今年も、コイズミ、安倍晋三や、3人の閣僚を含む53人の国会議員が靖国神社に参拝した。
彼らが一様に口にするのは、「尊い犠牲」や「英霊」という言葉。
しかし、私ははっきり言いたいが、戦争でなくなった人たちの命は尊いけれども、その犠牲は貴くも何ともない。
犠牲は悲惨で無慈悲で無駄だった。
この「貴い犠牲」という言葉も、「終戦」と同じペテン用語だ。
日本人の心性の中に、宮沢賢治のグスコーブドリのような、自己犠牲を尊いとする価値観が作られてきた。
それを、温存して、しかも、自発的な自己犠牲ではない、強制された「戦死」を尊いなどと言うことが、許されるものか。
遺族が慰めの言葉として言うのならば、まだ分からないでもないが、その犠牲を強制した連中の末裔に、「貴い犠牲」だったなどと言われて、いったい誰が安らかに眠れるものか!
犯罪被害者の権利が叫ばれているが、たとえば、殺人の加害者の息子が、被害者の仏前に参って、「貴い犠牲」でした、と言ったらどうだろう。それを聞いた遺族はどう感じるだろう。
戦争を遂行した権力を、ほぼそのまま受けついだ自民党の国会議員が、靖国神社に参拝して「英霊」とか「貴い犠牲」とか宣うことは、これと同じことだ。
そして、こんなペテンを平気で言うことのできる連中が、ゴロゴロしていると言うこの現実が、実は、63年前の悲惨な戦闘シーンにもまして、恐ろしい光景だ。
彼らも、戦争の映像を見れば涙するかもしれない。
しかし、顔をあげるやいなや「貴い犠牲でした。」と言って、同じ犠牲を再び強いることに、なんの躊躇いもないのだ。
何回、なん百回こうした悲惨なシーンを流しても、彼らには「英霊」であり、いつでも再現OKの「尊い犠牲」なのである。
8月になると流れる悲惨な戦闘シーンを見て流した涙をぬぐったその手で、こうした国会議員や権力者を支えてはいないか。
彼らこそが、その悲惨な光景を再現してはばからない人々だ。
※コメント欄に「貴い犠牲は存在する」というご丁寧な文章が書き込まれた。興味のある方は呼んでみてほしい。
やむにやまれず戦地へ向かい、あるいは空襲で亡くなった方々への、その局面だけを見たり想像したりした心情としては理解できる。
しかし、それでもなお、私はかの戦争で亡くなった人を「貴い犠牲」と呼称することはペテンだと言いたい。
いかに尊い命でも、いや、尊い命だったからこそ、戦争へ行ったことが尊いことではなく間違いだったと気が付かなくては、また再び同じ「貴い犠牲」が繰り返されるからだ。
※20代の大学院生からTBをもらった。
戦争雑感
あぁ,この人はちゃんと別のこととして認識しているんだ,と思いきや,今度は小泉さんや安倍さんを「犠牲を強制した連中の末裔」と言い切るのはどうなんだろう.いや,この文を書いている人がそういう政治信条であることは分かっているんだけど.この種の混乱を解きほぐした上でもう一度すべて飲み込む度量が,我々には求められる,と思う.
と、当ブログの引用にたいして書いている。
これが20代を代表する意見だとは思わないが、しかし、このように考えてしまう「ステージ」はいったい何なのだろう。普段あまり交流のない世代の意見だけに、心にとめたい。
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ウィキによれば、1951年頃までは、降伏記念日とか敗戦記念日と呼んでいたらしい。
その後、朝鮮戦争の勃発や日本軍(自衛隊)の復活とともに、「終戦」記念日と言い換えられるようになったようだ。
何が違うのかというと、「誰が」という主体があるかないか だ。
「負ける」のは、自然になんとなく負けると言うことはあり得ない。
誰かが誰かに負けるのである。
しかし、「終わる」のは、誰とも無く自然に終わるというイメージがある。
主体がない、責任者がいない ということだ。
ときあたかもオリンピックたけなわ。
たとえば、柔道で鈴木桂治が初戦敗退したときに、鈴木敗戦とは言っても、鈴木終戦とは絶対に言わない。
それは、負けた主体がはっきりしているからだ。
(鈴木選手を揶揄するつもりではないです。念のため。)
しかし、5分の時間が過ぎて、自然に試合時間が終わったときは、試合終了という。
これは、選手には関係なくおきることだからだ。
オリンピックならば、健闘を讃えればいいことだけれども、戦争ならばそうはいかない。
そうはいかない、トンデモない事態に対して、「誰が」を誤魔化すために作られたペテン用語が「終戦」という言葉だ。
もちろん、戦争の責任は勝った方にも負けた方にもある。
特に、太平洋戦争のばあいはそうだ。
アメリカにも日本にも責任はある。
その、両方の責任をアイマイにして、次なる戦争=朝鮮戦争へ向かっていくために、「終戦」という言葉が作られたと言えるだろう。
だから、今日、8月15日は、敗戦記念日であると同時に、「終戦」ペテン記念日というわけだ。
ところが、現実はもっと非道いことになっている。
終戦記念日「1面」扱い この新聞だけ
2008.8.15 Jcast
ペテン用語の終戦記念日すら、意図的に消されようとしているらしい。
とは言うものの、テレビでは、「終戦」記念日の特番がいろいろやられてはいる。
オリンピックと高校野球の裏裏番組で、どれだけ視聴されているのかはわからないが、午前中は家で事務作業をしながらテレビをつけていたら、いろいろ流れていた。
サイパン・グアムの玉砕体験をした話や、「キクちゃんとオオカミ」のアニメ。
野坂昭如原作のこのアニメは、オオカミの方がよほど優しく見えるほどに悲惨で過酷な戦争の体験を、象徴的に描いていた。
中国残留孤児がどうして生まれたのかという逸話でもある。
開拓民を残していち早く逃亡した日本軍がちゃんと描かれていないという憾みはあるものの、いいアニメだと思った。
■■
しかし、悲惨で残酷なのは、こうした戦争局面だけではない。
こんな非道い現実を見ても、なんとも思わない連中がいる、というその現実の方が、はるかに残酷で恐ろしいことだ。
今年も、コイズミ、安倍晋三や、3人の閣僚を含む53人の国会議員が靖国神社に参拝した。
彼らが一様に口にするのは、「尊い犠牲」や「英霊」という言葉。
しかし、私ははっきり言いたいが、戦争でなくなった人たちの命は尊いけれども、その犠牲は貴くも何ともない。
犠牲は悲惨で無慈悲で無駄だった。
この「貴い犠牲」という言葉も、「終戦」と同じペテン用語だ。
日本人の心性の中に、宮沢賢治のグスコーブドリのような、自己犠牲を尊いとする価値観が作られてきた。
それを、温存して、しかも、自発的な自己犠牲ではない、強制された「戦死」を尊いなどと言うことが、許されるものか。
遺族が慰めの言葉として言うのならば、まだ分からないでもないが、その犠牲を強制した連中の末裔に、「貴い犠牲」だったなどと言われて、いったい誰が安らかに眠れるものか!
犯罪被害者の権利が叫ばれているが、たとえば、殺人の加害者の息子が、被害者の仏前に参って、「貴い犠牲」でした、と言ったらどうだろう。それを聞いた遺族はどう感じるだろう。
戦争を遂行した権力を、ほぼそのまま受けついだ自民党の国会議員が、靖国神社に参拝して「英霊」とか「貴い犠牲」とか宣うことは、これと同じことだ。
そして、こんなペテンを平気で言うことのできる連中が、ゴロゴロしていると言うこの現実が、実は、63年前の悲惨な戦闘シーンにもまして、恐ろしい光景だ。
彼らも、戦争の映像を見れば涙するかもしれない。
しかし、顔をあげるやいなや「貴い犠牲でした。」と言って、同じ犠牲を再び強いることに、なんの躊躇いもないのだ。
何回、なん百回こうした悲惨なシーンを流しても、彼らには「英霊」であり、いつでも再現OKの「尊い犠牲」なのである。
8月になると流れる悲惨な戦闘シーンを見て流した涙をぬぐったその手で、こうした国会議員や権力者を支えてはいないか。
彼らこそが、その悲惨な光景を再現してはばからない人々だ。
※コメント欄に「貴い犠牲は存在する」というご丁寧な文章が書き込まれた。興味のある方は呼んでみてほしい。
やむにやまれず戦地へ向かい、あるいは空襲で亡くなった方々への、その局面だけを見たり想像したりした心情としては理解できる。
しかし、それでもなお、私はかの戦争で亡くなった人を「貴い犠牲」と呼称することはペテンだと言いたい。
いかに尊い命でも、いや、尊い命だったからこそ、戦争へ行ったことが尊いことではなく間違いだったと気が付かなくては、また再び同じ「貴い犠牲」が繰り返されるからだ。
※20代の大学院生からTBをもらった。
戦争雑感
あぁ,この人はちゃんと別のこととして認識しているんだ,と思いきや,今度は小泉さんや安倍さんを「犠牲を強制した連中の末裔」と言い切るのはどうなんだろう.いや,この文を書いている人がそういう政治信条であることは分かっているんだけど.この種の混乱を解きほぐした上でもう一度すべて飲み込む度量が,我々には求められる,と思う.
と、当ブログの引用にたいして書いている。
これが20代を代表する意見だとは思わないが、しかし、このように考えてしまう「ステージ」はいったい何なのだろう。普段あまり交流のない世代の意見だけに、心にとめたい。
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