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 好きな言葉集より ――― その言葉は、いつか誰かを殺すかもしれない。

言葉は凶器である。時として肉体的な暴力を上回るものである。
そもそも人類は言葉という伝達方法を用いなかったと聞く。
前時代の伝達には動作を用いるものが主だったとか、もっと優れたものがあっただとか、様々な説があるらしい。
人は言葉を手に入れたことで、伝達に齟齬が生じているのではないかと考えている人も居る。
だが僕はそうは思わない。優れているからこそ残ったのだと思いたい。
凶器になりえる力があるのだから、使い方さえ誤らなければ素晴らしい伝達手段だと思うのだ。
しかし、残念なことに全く誤らないわけがない。

誤れば誰かを殺すことになるかもしれない。大げさかもしれないがないとも言えない。
誤らなくても誰かを殺す可能性はある。
そう考えると、現在時代を席巻している"インターネット”というものが恐ろしく思えてくる。
あちこちで言葉が飛び交っている。その億、いや兆を超える言葉で誰かが殺されているかもしれないのだ。
それを踏まえた上で、あなたはインターネットというサービスを使用しているだろうか?
少しでも心の中に、そういった危惧があるだろうか?
今一度考えて欲しいものである。

僕はよく考える。
ここでEnterKeyを押すことで、誰かが酷く傷ついてしまうかもしれない、と。
時に躊躇う、時にはEnterKeyを押せずに終わってしまう。
それでも僕は言葉を綴る。
誰かの心に、傷以外の、もっと素敵な何かが残せるかもしれないからだ。
可能性があれば、可能性に賭けたい。
誰かが笑ってくれるような、時には泣くような、大事な何かを刻めるような、言葉を綴りたい。
そう思う限り、僕はインターネットという壮大で残酷な箱庭で語り続けるだろう。

僕の文章を読んでくれる貴方へ。
どうか僕の想いが、僕が思う正しさで、届きますように。


 というエントリーを1~2年温存していたらTVでどっかの偉いおじ様が似たようなことを仰るような時代になっていました。引用文は僕がまだ創作メインで活動していた時期に書いたもので、結局どこにも出せずに終わってしまったものでもあります。このブログに移ってから手直ししようしようと思っていたんですが、何分時間が経ちすぎていることも有り、手直しせず引用という形を取りました。

 なぜ手直しできないかというと、書いた頃の自分に、今の自分を上手く重ねられないからです。僕は昔に比べて、言葉に対して軽くなったのかもしれませんね。今はどちらかといえばこちらの言葉に共感できるような気がしています。

コメ欄より>一億二千万人中の1人に影響を及ぼすような表現を規制しろという話はかなりあほらしい<これに尽きる。たった一人の人間に影響を与える可能性はそりゃ何にでもあるわけだが、それは普通のケースじゃないわけで。(―Naoki Takahashi氏)


 「確かに」と思いました。ですが、ブログ等に置いても同じように考えてもいいんでしょうか?ブログによっては伝えられる範囲がある程度定まって居たりとか、制限をかけていたりもします。"誰に伝わるかハッキリ分かっている状態"で同じように考えていいものでしょうか。と問われれば、なんともいえません。

 うーん……。文字にすれば、エントリーとしてしっかり起こせば。もっと考えがまとまるかとも思いましたが進展はありませんでした。インターネット上で発信する言葉、どの程度気をつけられているものなんでしょうか。どこまで気をつければいいんでしょうかね。
 トラックバックやはてぶ、ニュースサイトを介しての幅広い言及など、ネット上での話題の広がりの速度は他の何物よりも勝っているように思います。様々な人の声、声。声を聞いては新たな自分の声とし、ブロガーは延々と答えを探し求めているように見えます。

 しかし当たり前みたいなことですが、プログラムや数学ならともかく世の中の多くの問題に正解と呼べるものはそう多くないように思います。あるのかもしれませんが、やすやすと辿り付けたりはしませんよね。(ここでの「正解」は全ての人とまで行かなくとも誰もが納得できそうな解、とします)

 では何を求めて、ブロガーはエントリーを書き、トラックバックをし、またブックマークをするんでしょうか?私は「自分なりの正解を追い求めていくのかな」と思います。人の声を聴いて、例え180度違った世論だったとしても、自分なりの正解を探して声を発していく。批判されても、声を出し続けるような。その声がどちらに傾くかは人それぞれだと思いますけどね。

 また、自分という生き物も変わっていく訳ですから、変わっていく中で変わって正解を記録する、という意味もあるのかもしれません。なんて、思いました。私も自分なりの正しさを追い求めていけたらなぁ。などと思います。
 『僕が創作をやめた理由とエロゲをやる理由』で書きましたけど、僕がエロゲをやる理由の一つには「創作への帰り道を探す」ってのがあるように思います。つまりエロゲを通して自分の中にある感情やらを掘り出したりして、語りたい言葉に変換するというのも目的といえる。だけれどそれがすべて"レビュー"という形で発散されるかはまた別。

 なぜエロゲなのかってのも恐らく前に書いた理由で合っている。共有した時間というのは大事。だから刹那的なのも活きてくる訳だし。

 芸術よりも写真のほうが共感できるのは知識としてそれ(被写体)を知っていて、理解できるからだと考えています。芸術は"在りもしないもの"だったりもしますしね。で、共感の幅を広げるためには生きてきた時間が重要になると思う。単純に考えれば、長ければ長いほどいいけれど心も老いるからなぁ。ベストといえる年代がどこなのかは僕みたいな若造には分かりません。



 逸れたので戻します。感動した。共感した。そんな気持ちがあるのなら、それは作品について語っているように見せかけて、自己を語れる可能性があるということじゃないかなと。

 だって作品なんて、幾通りもの解釈があって感じ方がある上に、正解なんてないんだ。物語はこうして終わった。それは真実であり曲がらないけれど、だからこうなんだってことは言い切れないのである。だったら語っていることはなんになる?自分の思想に他ならない。自分はこう思う、思っている。それは立派に自分のことだ。

 だから少しでも好い。一言でも好い。自分を語れる可能性があれば、それは自分の中で名作となりえる。僕はそう思います。一言でというのは大げさかもしれませんけどね。



 関連:Re:Re:Re: 僕が創作をやめた理由とエロゲをやる理由


 夕陽、夕焼け。



 遂に梅雨の季節が来てしまいました。図書館戦争ならぬ洗濯物戦争がコインランドリーで繰り広げられるでしょう。……いやだなぁ。

 更に僕は無類の夕焼け朝焼け好きなので、この季節はちょっと寂しかったりも。雨も雨で好きですけどね!偏りすぎなのは好くないよなー。

 ところで皆さん、景色や情景で思い出す場面ってありますでしょうか。僕は夕焼けと言えば『もしも明日が晴れならば』の明穂の海のシーンを思い出します。あの場面、砂浜に足跡がついたときにはグッときたものです。というか明穂ルートは終始キてたなぁ。とかそういうことを一々思い出したりするんですが、こういうことってあるもんなんですかね。


 すごいなすごいなー熱いな。と思ってもっともっと聴きたかったんですが他に用があったのでちょこちょこっと聴いて立ち去りました。でも凄かった。金曜夜立川での路上ライブ。久しぶりにいい路上だなーと思いましたね。

 CDで上がってくるものとは違うし、箱ライブなんかとも違う。仕事に疲れた人や遊び疲れた人がふと立ち止まる。歓声を上げ、拍手する。すれ違うだけで、下手したら疎ましく思い合うだけかもしれなかった人たちが、隣あって何かを感じるなんて他の何かじゃなかなかできないことですよ。

 路上って歌詞はなかなか聴き取れないことが多いように感じるんですが、それでも盛り上がるってことは大事なのは音なんだろうと思います。"音を楽しむ"んだから当たり前かもしれませんけど。なんていうか音楽っていうのは即効性に長け過ぎてると思うんですよ。異常ですほんと。そんな異常なものなんだから、エロゲにおけるBGMも大事ですよね。(強引な話題転換)

 絶妙なタイミングで流れ出すBGMとかが一つの世界を創り上げる。画があり、シナリオがあり、それで出来上がっているかのような錯覚を起こしてしまうんですが、それを支えてるのってきっと音楽なんですよね。多分、多少のミスというかズレというか違和感なんかは好い音楽さえあればサラッと流せてしまうと思います。

 名作と呼ばれるものには好い音楽が付き物だと思うのは気のせいでしょうか。個人的には安瀬聖氏や樋口氏&BURTON氏コンビなんかが好きです。『さくらむすび』のBGMの好さは異常。

 OPの選曲も大事ですよね。OP曲が一人歩きしてるゲームなんかもあるくらいですから。そこからゲームに入ってもらえたりもしますしね。そういう意味では『キラ☆キラ』の音楽は自由奔放に広まって、そこから色んな人に楽しんで貰えたりしたんじゃないかなと。社長がバンドマンってのは強いよなぁ。カーテンコールのOPとか出来たら釣られちゃうんだろうなぁ。ほんと音楽の引き込むパワーって異常だと思う。